目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      吉崎の地
写真222 坂井郡吉崎

写真222 坂井郡吉崎

 吉崎は越前最北端の坂井郡内に位置し、中世は大和興福寺大乗院領の河口荘細呂宜郷下方吉久名に属した(『雑事記』文明六年十二月二十日条、『蓮如上人遺文』九九)。吉崎は古来から白山信仰の聖地となっていたらしい。この地が一躍有名になったのは、文明三年(一四七一)本願寺蓮如が山頂を「ひきたひらげ」て小さな坊舎を構えてからである(金津町吉崎願慶寺所蔵の延宝五年「越前吉崎古跡図之写」では四間四面)。蓮如は長禄元年(一四五七)に父存如の死によって本願寺八代目の住持となった。彼はすでに四三歳を迎えていたが、継職当初から新たなる宗派・教団の形成を意図し精力的に活動していった。このような蓮如のもとにまっ先に参じたのは、京都に近い湖西の堅田と湖南の金森・赤野井の人びとであった。寛正六年(一四六五)比叡山の衆徒は自らの膝元での「邪法」の隆盛を危ぶみだし、蓮如らが「仏像・経巻を焼失し、神明和光を軽蔑」するのは見過ごせないと、東山大谷の本願寺を攻撃し破却した(寛正の法難)。蓮如らは防戦かなわず「逃散」し、以後しばらくの間は湖西・湖南の一帯を転々とし、そして北陸へ下っていったのである。
写真223 吉崎御坊絵図(新潟県上越市本覚坊所蔵)

写真223 吉崎御坊絵図(新潟県上越市本覚坊所蔵)

 吉崎山(通称御山)は海抜三三メートル余で、北・西・南の三方を北潟湖に囲まれた面積約二万平方メートルの小丘である。吉崎選定にあたっては、細呂宜郷の領主である大乗院経覚との姻戚関係に着目する説や、朝倉氏との友好関係に着目する説がある(『拾塵記』、「長勝寺略縁起」)。しかし文明三年三月は、朝倉氏が従来の西軍から東軍へと態度を変えた激変期にあたり、河口荘一帯における朝倉氏と甲斐氏(西軍)両者の覇権の帰趨は未確定であった(『雑事記』裏文書)。さらに、「吉さき村」は同郷内であるが、吉崎山自体は荘園というよりむしろ領主権の比較的及ばない村民共有の「虎狼のすみなれし」山とみるのが自然であり、のちの摂津国石山御坊などと共通する地理的環境にある。同年四月上旬に近江を発ち、京都を経由して北陸へ入り、吉崎坊舎の建立が七月末という事実をふまえると(『蓮如上人遺文』二六)、蓮如は畿内・北陸に点在する庶子一族や北陸の有力門末の意見を徴しながら、足羽郡和田本覚寺が別当職を有する細呂宜郷内の(『雑事記』文正元年七月一日条)、越前・加賀両国の守護勢力からの圧力が最も弱い「国境」の地である吉崎を選択したものと考えられる。
 滋賀県多賀町照西寺に「吉崎山絵図」が伝えられている。この絵図を転写し注記を加えたものに、新潟県上越市本覚坊所蔵の古図(享保十八年)がある。その注記には、新潟市勝念寺旧蔵本(照西寺蔵本)の原図は下間安芸蓮崇筆になるものか、あるいは証如期の本覚寺実恵が写し取ったものであると記されている。これが事実ならば、照西寺蔵本(勝念寺旧蔵本)と本覚坊蔵本は、十数種類の吉崎関連の古絵図のなかでも戦国期の原像を今に伝える最古の絵図ということになる。照西寺本によると、本坊は桧皮葺で、境内地(屋敷地)と麓の多屋は西門で隔てられ、丘の西面には茅葺の多屋九坊が点在し(『蓮如上人遺文』一八八)、外域とは南大門・東門・北大門で隔てられている。これが内寺内なのだろう。東門の東側の外寺内と推測される所には、鳥居を含む従来からの吉崎村の家屋や、諸国からの参詣人の宿泊所と推測される建物が点在している。この構造は、のちの京都の山科本願寺の寺内と同一である。門の存在に着目すると吉崎寺内は本質的に「屋敷・家内」であり、その拡大したものということになる。
 多屋とは蓮如側近や大坊主分の詰所や参詣者の宿泊施設であるが、当該期には、山野での生活に必要な物資を置く所、あるいは戦乱を避けるための避難所として各地で村民共同の山小屋の構築・維持がなされており、多屋は各地の有力門末による山小屋づくり運動の一類型とみなすことも可能といえよう。戦国期の畿内・近国には宗主一族の住する「御坊」が次つぎと建てられ、それらはともに数町歩に及ぶ「寺内」を有するが、これら寺内は民衆の立入りを禁じた諸宗派の名刹寺院の境内とは異なり、広く一般の人びとに開放され自由な商工業が育っていくことになる。



目次へ  前ページへ  次ページへ