目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 戦国大名の領国支配
   第二節 朝倉氏の領国支配
     五 朝倉氏の農民支配
      本役米収納
 このように朝倉氏領国制下では荘園の本年貢納入制度が存続し、そのもとに寺庵・給人が内徳収納者として知行を認められていたから、本年貢収納もそれに沿った形となる。醍醐寺如意庵領であった坂井郡春近郷末平半名においては田地二町八段六〇歩の分米三七石二斗のうち二七石が内徳とされ、深岳寺・土屋宮内丞・名川左京亮という寺庵・給人がこの内徳を分割知行するとともに、井料米一石三斗を除いた八石八斗五升を如意庵分本年貢米として納入することとされていた(『大徳寺文書』三〇三九・三〇四八号)。また京都の大徳寺真珠庵と酬恩庵が足羽郡二上村で与えられていた本役米を永禄十一年に徴収したときの注文は、1「壱石二斗半田源左衛門尉分 衛門弁」のように何々分(半田源左衛門尉分)と本役弁納者(衛門)を記すものと、2「三石六斗三升 大田新左衛門尉弁」のように本役弁納者しか記さないものに大別される(資2 真珠庵文書一二二号)。1の半田は内徳収取者と考えられ、弁納者の衛門は本役を真珠庵などに、内徳を半田に納入していたものと判断される。これに対し2の大田は作人より年貢を徴収して本役を納入し、残りを自らの内徳分としていたと考えられる。半田も大田もその内徳分を朝倉氏より目録安堵によって保証された給人とみてよいであろう。この2の場合に真珠庵などが本役負担者として掌握しているのは農民ではなく給人であった。またこの二上村の例では本役負担者とその負担額は記されているが、耕地は記されていない。他の本役収納者の場合でも、本役負担者と負担額は記されるものの耕地は記されないことが多く(資4 滝谷寺文書五一号、資7 寳慶寺文書七号)、本役収納者の耕地掌握は弱かったと考えられる。
 敦賀郡西福寺領を含む地を支配した「地頭」のように、本役収納者は本役未納が生じたときにはその地を「検地」して内徳分をも吸収しうる権限を本来もっていた(資8 西福寺文書一七三号)。後述する丹生郡織田本荘本所方の名々のうちにみえる散田はこのようにして生じたものと考えられる(資5 山岸長家文書一二号)。
写真195 丹生郡織田荘

写真195 丹生郡織田荘

 しかし、朝倉氏が内徳分を安堵するようになると状況は変化する。朝倉氏が内徳分を安堵するときには必ず本役納入を義務づけているが、彼らはしばしば本役を未進した。これに対し本役徴収者は、この地が朝倉氏安堵の地であるため取り上げて他人に充行うこともできず、もっぱら朝倉氏に頼って収納を確保する以外に打つ手がなかった。永禄五年十二月、駒千代や大勝院などの給人・寺庵が織田神領内において本役米を無沙汰し、たびたびの催促にも応じなかったので、織田寺社の訴えを受けた朝倉氏は年内中に納入しなければこれら寺庵・給人の内徳分を没収するとしている(資5 劒神社文書四九号)。また内徳分知行者あるいはその代官が知行地を売却したため本役米が不納となった場合には、朝倉氏の命により売却地を没収して本役米を納入させることになっていたが(同三九号)、その売却地を買い取った者が朝倉氏の安堵を受けている場合には、買得者が本役を負担した(資8 西福寺文書二〇一号)。本役収納者は荘園領主の権限を引き継ぐものであるが、右にみたように朝倉氏領国制のもとでは本来の支配権を制約されており、耕地や農民の掌握も弱く、朝倉氏に依存する度合いを強めていた。



目次へ  前ページへ  次ページへ