山内氏が史料に初見するのは鎌倉期末である(資8 西福寺文書一号)。観応元年(一三五〇)、山内重経が櫛川郷地頭給の田地の一部を売却しているから(同二号)、山内氏と櫛川郷との関係は遅くとも南北朝期の初めころまでさかのぼることができる。その後、重経は西福寺への田地の寄進・売却を通じて西福寺との関係を強めていった。明徳三年(一三九二)から山内重経の孫将経が田地を西福寺に寄進するとともに安堵状を発給しているから、櫛川郷において勢力を維持したことがわかる。
山内将経の寄進状や安堵状は応永二十一年までみられるが、応永二十年になると守護が山内氏の寄進を安堵するなど(同四八号)、上級権力の浸透がみられるようになる。応永二十一年以降は守護の安堵状が多くみられ、さらに永享五年(一四三三)以降になると敦賀郡代甲斐氏の安堵状がみられるようになる。このように、敦賀郡の支配体制が整備・強化されていくなかで、山内氏の勢力は弱まっていったと考えられる。このため、こののち山内氏の西福寺への発給文書は永享八年の山内弥七郎の寄進状がみられるだけである(同一〇四号)。
しかし一方で、山内櫛河七郎が文安年間(一四四四〜四九)に成立したと考えられる「蜷川番帳」に奉公衆としてみえ、さらに永享八年の櫛川郷の惣百姓の山林敷地売券の裏書をしている「藤原弥六貞通」は(同一〇三号)、裏書をした時期は特定できないものの、「長享番帳」四番に属する山内兵庫助貞通や「東山番帳」四番にみえる山内首頭弥六とも考えられる。これは山内氏が奉公衆として守護勢力に対して独自性を維持していたようにみえるが、長禄二年の合戦のさなか、守護方より首藤隼人入道に対して西福寺寺領内における甲乙人の徘徊を禁止すべき旨が伝えられていることをみれば(同一二八号)、守護の支配下にも属していたものと考えられる。 |