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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
     二 奉公衆と室町幕府料所
      越前奉公衆 千秋氏
 千秋氏は熱田大宮司季範の孫憲朝より千秋を名乗り、その子孫は鎌倉期に六波羅評定衆を勤め、在京人であることが知られる(『尊卑分脈』)。番帳によれば戦国初期まで奉公衆千秋氏には三番に属する刑部少輔あるいは駿河守を称する家と、五番に属する民部大輔と宮内大輔(史料上はそれぞれ民部少輔・宮内少輔として現われる)の家があった。
 まず三番に属する千秋氏についてみると、康永三年(一三四四)に足利直義が高野山金剛三昧院に奉納した和歌の作者の一人として千秋高範が知られ(「直義金剛三昧院奉納和歌」)、翌四年には千秋駿河左衛門大夫が天竜寺供養に臨む尊氏・直義に随従している(『園大暦』康永四年八月二十九日条)。そして応安五年(一三七二)二月十日に六条八幡に参詣する義満の沓役を勤める千秋駿河左近将監が現われ(「花営三代記」同日条)、康暦元年(一三七九)七月二十九日からは千秋刑部少輔が同様の役を勤める将軍親衛隊の一人として行動していることが知られる(同前)。この駿河左近将監・刑部少輔は高範の子の経季と考えられる。この経季は坂井郡春近郷を知行しており、応安五年に彼の代官は南に隣接する醍醐寺領吉田郡河合荘に乱入して用水堤を切り落としたとして醍醐寺から訴えられている(資2 醍醐寺文書六一号)。これより少し以前の貞治六年(一三六二)二月に「千秋安居一門」が、前年に幕府に背いて越前に逃げ下っていた斯波高経に味方して「安居白土岡」に立て篭もったので、朝倉高景・氏景がこれを攻略したと伝えられており(壬生本「朝倉系図」)、千秋経季は日野川と九頭竜川の合流点付近に勢力をもっていたことを知ることができる。貞治五年の斯波高経失脚のときまで越前の実質的な守護であった高経の子義種は、この経季の父の高範の娘を妻として嫡子満種を得ていたから(「武衛系図」)、経季は斯波氏と姻戚関係にあったのである。したがって、幕府に離合を繰り返した斯波氏の動向の影響を千秋氏も受けることとなったのであり、文和元年八月に春近荘四分一地頭職が将軍義詮によって若狭の本郷氏に与えられ、貞治五年十二月に再び本郷氏に安堵されているのは、斯波氏の動向と関連して千秋氏の越前の所領も没収されることがあったことを示している(資2 本郷文書四三・五六号)。室町期のこの千秋氏と越前の関係は残念ながら不明である。ただ、応永九年(一四〇二)正月に斯波満種が禅中という人より得た春近郷末平名を命賢禅尼(満種の母千秋氏であろうか)の霊供田として大徳寺如意庵に寄進しており、千秋氏の所領が満種に一部継承されていることを知ることができる(『大徳寺文書』三〇三一号)。
 次に、五番衆としてみえる千秋氏については、鎌倉期より越前に根拠地をもっていたことが知られる。すなわち嘉元四年(一三〇六)八月に丹生郡宇治江村五郎丸名内二段の地を父母の年忌料として大谷寺に寄進している藤原兼範がいるが(資5 越知神社文書六号)、『尊卑分脈』によれば千秋氏の一族である兼範の子範世は「千秋宇治江五郎範世」とも称されており、千秋宇治江氏の存在を確認することができる。五番衆千秋氏のうち宮内少輔家が丹生郡糸生郷山方の地頭となった家とみられ、宝徳元年(一四四九)から翌二年にかけて大谷寺の神田を押領し、神木を売り払ったとして大谷寺から訴えられている(資5 越知神社文書二〇・二一号)。その後、長禄合戦中の長禄二年(一四五八)十一月に幕府は千秋宮内少輔範安の所領である糸生郷山方を没収し、北野天満宮に与えている(資2 北野神社文書一〇号)。これには千秋氏も反発し、現地ではすぐに千秋信濃守や金蔵坊がこの地を買得・押領したとされている(「北野神社引付」)。
 また民部少輔家は宇治江(氏江・氏家)の隣の野田郷を支配した奉公衆で、嘉吉元年(一四四一)四月の結城合戦では大きな戦功を挙げていた(「永享記」)。しかし寛正二年(一四六一)九月に幕府は千秋民部少輔入道浄祐の支配していた野田本郷・同郷内元興寺領代官職を一色政煕に知行させることにしており、民部少輔家は本拠地を失った(資2 国会図書館 胄山文庫文書一・三号)。寛正二年九月は越前守護が義敏の子松王丸から渋川氏出身の義廉に替えられたときにあたる。義敏・松王丸は斯波庶子の家義種・満種の系譜を引くから、千秋氏は南北朝期以来この義種系斯波氏との結びつきを維持しており、そのことがこうした所領喪失を招いたものと推察される。このように三番衆・五番衆のいずれの千秋氏とも、奉公衆でありながら守護庶子家と深いつながりをもっていたことが注目される。
 朝倉氏支配下の文明十一年(一四七九)に千秋式部少輔季藤が朝倉氏家臣として現われ(資2 清水寺成就院文書一号)、これ以後朝倉氏家臣の千秋氏が知られるが、その系譜は明らかでない。「長享番帳」にみえる駿河守・民部大輔にはともに越前と肩書きが付されているが、奉公衆千秋氏は朝倉氏家臣の千秋氏を通じて越前とのつながりを保持していたものと考えられる。駿河守家はこの後も熱田大宮司家として近世を迎える。



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