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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
     二 奉公衆と室町幕府料所
      奉公衆の役割
 奉公衆は室町幕府の御目見以上の直勤御家人で、「当参奉公之族」「当参奉公之仁」などとよばれた、いわゆる「当参奉公人」が奉公衆の母胎と考えられる。「当参奉公人」は、近習として参内・寺社参詣の「帯刀」など将軍の護衛を務めた。さらに、奉公衆は幕府開創期から文和元年(一三五二)までみられる山城国を対象とした、所務沙汰(所領についての裁判)を遵行する幕府使節としても現われる人びとである。
 奉公衆は近習などと比較されて、将軍直属の軍事力編成に力点が置かれたといわれるが、その人員構成は足利氏一門および守護大名の庶流、足利氏の根本被官・家僚奉行層、有力国人領主である。そのほかに奉公衆の特徴を列記すると、その体制は将軍足利義教の初期に整えられ、応仁・文明の大乱を経たあとの将軍足利義材(のち義尹、義稙)の延徳三年(一四九一)の江州動座のころまでほぼ健全に機能していた。奉公衆は室町幕府の料所を預け置かれ、幕府の経済的基盤を確保した。奉公衆に守護大名の一族庶流や有力国人領主が任命されることで、彼らが地方における将軍権力の拠点になり、有力守護大名を牽制・統制して中央への依存性を強めさせる機能を果たした。特に守護に対して、在国の奉公衆に重犯科人が出た場合、幕府に注進させてその成敗に従わせる方針が定められ(「室町幕府追加法」二六六条『中世法制史料集』2)、奉公衆が守護の検断権の枠からはずされ、保護されていた様子がうかがえる。奉公衆の所領には守護役や段銭の免除・京済、守護使不入の特権が認められていた。
 以上が奉公衆の特徴であり、奉公衆体制の実質的崩壊が将軍権力の没落を意味した。また、奉公衆の所在分布は近江・三河・尾張・美濃の四か国に集中し、北陸・山陰・山陽の諸国にも分布する。奉公衆は一般に洛中に屋敷地を給与されており、そのため将軍御所の移転は同時にその周辺の屋敷地の再開発をともなった。



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