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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    一 国人層の活動
      知行地と惣領権
 本郷氏は若狭本郷をはじめ、各地の地頭職などに補任された。その主なものを示したものが図36である。しかし、これらの所領の大半は南北朝期に失われていった。本郷氏の庶子家としては丹生郡大井村を拠点にした大井氏が知られる。明応三年(一四九四)大井常久は惣領本郷政泰と考えられる人物に充てて、政泰の子と思われる虎菊に大井村武重名を譲与することを述べている(同八・一二一号)。近世に入って加賀前田氏の家臣としてみえる大井氏は、この丹生郡の大井氏であろう。
図36 本郷氏の所領相伝関係

図36 本郷氏の所領相伝関係

 室町期になると、本郷氏の所領は若狭本郷に限られるようになり、所領支配をめぐって惣領家と庶子家による競合が生じるようになった。図36にみられるように、「本郷之土貢半分并立帰人夫廿五人」をめぐる争いがそれである。この権限は、惣領本郷詮泰が子の六郎小法師に譲った譜代相伝の知行地のうちから庶子安親に譲与したものであり(同九一号)、「永享番帳」で安親が奉公衆になっていることを考えると(表35)、その経済的な基盤として預け置かれたものであろう。しかし文明十一年(一四七九)、安親の子国泰が惣郷の土地、庶子へ分割した土地や女子分などの半分を押領したため、国泰が引き継いだ得分などは幕府の料所に定められて政泰に預け置かれた(同九五号)。これに対し本郷国泰が係争地を返付しなかったため、国泰に対して係争地を返付するよう命じた幕府の奉行人奉書が多く伝わる。このようななか、足利義高が本郷政泰に、国泰が押領した分の年貢の返還について、まだ返済されていない分の赦免を伝えているが(同一二九号)、戦国期になると守護武田元信が本郷政泰に惣領家の本領安堵を保証するようになる(同一三八号)。元信は政泰の知行地について「京都の時宜相違」、すなわち幕府からの命で不都合なことが生じたときにも政泰に対し「疎略あるべからず」と述べている。守護武田氏が政泰にこのように書き送っていることは、武田氏が惣領家の本領を安堵することを通じて在地領主を掌握しようとしていた様子を示している。
 これに対して、幕府は地方における拠点を確保するため本郷氏の庶子家との関係を強めようとし、大永三年(一五二三)に庶子家得分を安堵している(同一五二号)。しかし、庶子への安堵も武田氏の被官松宮氏の違乱を受けている(同一五三号)。さらに、本郷光泰が将軍足利義晴に討伐されそうになって逐電すると、その知行分について「武田に申聞候て、武(武田)に申され様により御料所にも成さるべく候」と、武田氏の意見によって料所に指定する動きがみられるなど(『大館常興日記』天文九年九月二十六日条)、奉公衆や料所に対しても武田氏の意向が及ぶようになり、武田氏の家臣粟屋氏の所領が本郷内に成立するようになる(本郷文書一五八号)。



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