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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      道元没後の永平寺と三代相論
 道元のいなくなった永平寺は二代孤雲懐奘の尽力によって維持されてきたといえる。道元の生前中から『正法眼蔵』の書写を続けてきたが、道元寂後も道元が最晩年に新たに一〇〇巻をめざして編集しなおすために書き始めたという新草『正法眼蔵』の書写を中心に道元の遺作を整理し、書写を続けている。
写真84 「正法眼蔵仏性」第三(懐奘筆、部分)

写真84 「正法眼蔵仏性」第三(懐奘筆、部分)

 懐奘はいま一方では、建長七年二月十四日に徹通義介に嗣法を許している(「永平寺室中聞書」)。この義介は懐奘の要請により宋国に渡ったというが、この入宋はまず史実であったとみてよかろう。そして弘長二年(一二六二)に在宋四年にして帰国した。義介が将来したと伝える「五山十刹図」(金沢市大乗寺蔵)には問題点がある。将来説は否定されないとしても、それを親しく見聞し筆録したということではなさそうである。しかし義介が入宋し学んできたことが反映されて、永平寺の伽藍と規矩(規律)が整備されたことは確かであり、それは帰国早々に実行されていった(「三祖行業記」)。
 文永四年(一二六七)四月八日、義介が懐奘のあとを受けて永平寺三代に入った。義介はその後も引き続き伽藍や規矩の整備に力を尽くしたとみえ、「永平中興」とさえ称されたようである(同前)。しかしこの革新的な面に反発する人びともいた。何らかの事件があったようである。結局、義介は文永九年二月に退院している。そののちに寺の門前に養母堂を建てて母を養っていたという。これがいわゆる第一次三代相論というべき事件である。
 義介のあとの永平寺には懐奘が再び住した。しかしその懐奘も弘安三年八月二十四日に死去している。そこで、義介が再度永平寺に入ることになった。ところがやはり義介の革新的な面を指示する一派とそれに反発する道元の宗風を重んずる一派との対立は深まるばかりであったようである。義介は住持すること七年にして弘安十年ついに永平寺を退院し(「建撕記」)、すでに弘安六年の時点で澄海法師という人物の招きに応じてその開山(第一世)となっていた加賀大乗寺に入ってしまう。
 そのあとを受けて永平寺四世として入ったのが義演であった。義介が入宋したりして伽藍の整備や規矩などについて学んでいたときに、二世懐奘を手伝って『正法眼蔵』の書写や道元の語録である「永平広録」の編集などを行なっていたのが義演であった。義介の革新性に対して、義演には道元の禅風をそのまま守る姿勢があったものと思われる。大檀那波多野氏の努力もあったようであるが、義介派との対立は避けられなかった。これがいわゆる第二次三代相論である。
 のちに義演が没すると、義介と義演のいずれを永平寺三代とするかで双方の遺弟たちのあいだでさらに相論があったとされる(同前)。すなわち第三次三代相論である。
 義演の行状については史料がないが、加賀大乗寺に入った義介の門弟である瑩山紹瑾は、永平寺住持中の義演の許可を得て「仏祖正伝菩薩戒作法」の書写をしている。この年代に正応五年(一二九二)とする説(大乗寺所蔵「仏祖正伝菩薩戒作法」)と永仁四年(一二九六)とする説(「洞谷記」)があるが、いずれにしてもこのころに義演が永平寺の住持として在住していたということになる。
 また義演の住持中に二度ほど火災に遭ったという説がある。一つは永仁五年三月二十四日に山門・方丈を残して全焼したとする説である。金沢市の浄住寺が所蔵する「安楽山産福禅寺年代記」にみられる記載であるが、「建撕記」には見当たらない。いま一つは、徳治・延慶年間(一三〇六〜一一)のころに火災に遭い、懐奘が書写した『正法眼蔵』も焼けてしまい、義雲が灰燼のなかから拾い出してまとめたものが義雲本と称される六十巻本の『正法眼蔵』であるという説である。しかし義雲の六十巻本はそのような成立ではないので、この説も成立しない。次の義雲が五世として入ったときに永平寺はかなり荒廃していたようであるが、火災後の永平寺を興したという記録はないので、これらの火災説は史実ではないようである。近世に編纂された「日本洞上聯灯録」のなかの義演伝では、晩年は報恩寺に閑居し世間に出ることはなかったと記述されているが、同寺がどこの寺院であるのかは未詳である。



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