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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
     二 道元と永平寺
      永平寺の開創
 仁治四年七月七日、すなわち七夕の時点では興聖寺にいた道元は、閏七月一日には志比荘の吉峰寺(上志比村吉峰)において『正法眼蔵』(三界唯一心の巻)を説示している。「建撕記」は、七月十六日に宇治を出発し、七月末には越前の吉峰寺に入ったと記している。『正法眼蔵』の各巻の奥書により、道元がどこに居住していたのかがわかるが、入越当初の道元は閏七月一日から十一月十三日までは吉峰寺において四か月半の間に一六巻の『正法眼蔵』を説示している。十一月六日に説示された『正法眼蔵』(梅華の巻)には「深雪三尺大地漫々」とあるように、吉峰寺は雪の深いところであった。十一月十九日から翌寛元二年元旦までに、禅師峰下の草庵(大野市西大月)において『正法眼蔵』五巻が示衆され、門弟懐奘により二巻が書写されている。
 禅師峰で正月を越した道元や懐奘は吉峰寺に戻り、正月十一日から六月七日までは同寺にて『正法眼蔵』各巻の示衆や書写を行ない、このときの夏安居(四月十五日から七月十五日の修行)は吉峰寺を中心に行なわれたものと思われる。越前に入国して一年弱の間に、道元は吉峰寺から禅師峰へ移り、また吉峰寺へ戻ったことになるが、周辺の僧侶たちは両寺間を往復しながら修行生活を続けていたのではないかと思われる。
吉田郡吉峰寺(上志比村吉峰)

吉田郡吉峰寺(上志比村吉峰)

 そしてこの間に、それまでに計画されていたであろう大仏寺の建立が、春になるのを待って実行に移されていった。二月二十九日には大仏寺法堂の地を平らにする工事、四月十二日にはその法堂の上棟式が行なわれた。その儀式の時間などについては陰陽師の安倍晴宗に占わせている(「建撕記」)。この安倍晴宗はのちの建長四年四月一日に宗尊親王が将軍として鎌倉へ下向するさいに、西御方(内大臣土御門通親の娘)や波多野義重らとともに従った人物である。七月十八日には開堂説法が行なわれており、道元の語録集である「永平広録」にもそのときの法語が掲載されている。寺院は吉祥山大仏寺と号することになった。
 このときの法要の参詣人のなかには、「前大和守清原真人」「源蔵人」「野尻入道実阿左近将監」「案主」「公文」などがいた(同前)。このうちの「野尻入道」とは越中国野尻にいた波多野義重の子息の時光であろう。また「案主」「公文」といった荘園を管理する在地の人物と思われる人びとの参加もあったことがうかがえる。九月七日には京都の興聖寺より大仏寺に木犀樹が送られてきている。大仏寺開堂の祝賀ということであったろう(同前)。そして翌寛元三年の四月十五日には大仏寺において夏安居の上堂(堂の須弥壇の上に登って行なう説法)があった(「永平広録」)。これはすでに大仏寺に僧堂が完成していたことを示している。
 このような大仏寺の建立には波多野義重とともに覚念の助力があった。越前に入ってまもないころに、すでに二人で寺地の選定にあたっている。「建撕記」に、「雲州大守并今南東左金吾禅門覚念相共ニ建立セント欲ス、庄内ニテ山水ノ便宜ヲ尋ヌ」とみえ、覚念は今南東郡内に所領をもっていたことがうかがえる。ちなみに今南東郡とは、今立郡のうち月尾川・鞍谷川流域および足羽川上流域にあたる。道元は最晩年に上洛し覚念の私宅で療養生活を送っているので(「建撕記」)、先述したように覚念は京都に私宅をもち今立郡に所領をもつ人物であったといえる。覚念は波多野義通の二男義職(義元)の子息としてみえる中島義康ではないかと考えられ(『諸家系図纂』巻一八)、波多野義重は同じく波多野義通の長男忠綱の子息であるから(『尊卑分脈』)、義重と覚念とは従兄弟という近い関係にあったことが理解される。
 ところで大仏寺という寺名であるが、これは禅宗寺院として建立される以前にあった寺名であったと思われる。道元や波多野義重・覚念らは大仏寺という古寺があった所を整地してそこに本格的な禅寺を建立し、旧寺名をそのままとって大仏寺としたものと考えられる。なお、大仏寺は現在の永平寺裏山の大仏寺山山頂付近にあり、三代の義介のときに現在地に移ったとする説があるが、大仏寺旧跡といわれる所はのちの永平寺の伽藍が存在したほどの広さはないので、大仏寺は当初より現在の永平寺が存在するあたりに建立されたものと考えられる。
写真83 吉田郡永平寺全景(永平寺町)

写真83 吉田郡永平寺全景(永平寺町)

 大仏寺の開堂説法から二年、同寺での初めての結夏上堂から一年が経過した寛元四年六月十五日、道元は大仏寺を永平寺と改めている(「永平広録」)。またこの日には「永平寺知事清規」を撰述し、永平寺を運営する六知事の心構えを定めており、道元の意気込みが感じられる。
 道元は宝治元年(一二四七)八月に執権北条時頼の招請により鎌倉に赴き、説法を行ない、翌二年三月に帰山している。この鎌倉行きはあまり思うようにいかなかったようで、反省の色がみえる(同前)。この年の暮の十二月二十一日に「庫院須知」を定めて、「公界米」の使用の仕方について規制を定めており、それより二年前の寛元四年八月六日にも『正法眼蔵』(示庫院文の巻)で規制を定めており、すでに庫院が存在したことが知られる。また建長元年正月十一日には「吉祥山永平寺衆寮箴規」を撰述しているので、衆寮という建築物も完成していたことが理解できる。
 建長元年十月十八日に道元は「永平寺規制」(永厳寺文書一号『敦賀市史』史料編二)を設け、参陣・訴訟を行なうこと、諸寺の役職に就くこと、他寺院の勧進職を勤めること、地頭や守護所の政所へ赴き訴訟を行なうこと、諸方の墓堂の供僧や三昧僧(葬送にかかわる僧)を務めることなど、九か条について禁止しているのである。禁制を定めなければならないほど、さまざまな能力をもった僧侶たちが存在したということになる。そこには、ややもすれば世間の一般的な傾向に流される僧侶を出さないよう腐心している道元の姿がある。
図16 吉田郡永平寺周辺の主な曹洞宗寺院の分布

図16 吉田郡永平寺周辺の主な曹洞宗寺院の分布

 また永平寺にはさまざまな人びとも参詣したようである。寛元五年正月十五日の布薩説戒のさいには五色の雲が方丈の正面障子にたなびいたといい、参詣していた吉田郡河南荘中郷の人びとがそれを見物したという文書が伝えられている(資2 全久院文書一二号)。
 道元は建長四年の秋に病気となり、翌五年七月には永平寺を退いている。そして懐奘が七月四日に二世として入院した。八月五日に道元は懐奘をともない京都に向かって出発し、俗弟子覚念の高辻西洞院の宅に入り、八月十五日には中秋の和歌を詠み、同月二十八日に寂した。五四歳であった。
 懐奘は東山の赤辻にて道元を荼毘に付し、九月十日に永平寺に帰った。同月十二日には葬儀を行ない、永平寺の西隅の道元の師如浄の塔があったところに塔を建て、その庵を承陽庵と号することにしている。なお、それまでの如浄の塔は道元を慕って中国より渡来した寂円が塔主として守ってきたものであった。



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