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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    四 市場と銭貨流通
      市場の立地
 越前においては、正和四年より史料に現われる坂井郡の金津の宿、あるいは金津八日市が注目される(「雑々引付」)。この金津八日市についてはあとで詳しく述べるが、この市が一月のうち八・一八・二八の日を市日とする三斎市であったことは確実である。金津に関して注目されるのは、この地が竹田川を挟んで北が坪江郷、南が河口荘に属する「入組み」の地、すなわち境界の地であったことである(『雑事記』文明十二年八月三日条)。市場はこうした境界の地において成立することが多かった。現在の福井市街地に発展した地は戦国期には足羽三か荘(足羽北荘・木田荘・社荘)の入組みの地であったし、同じく大野市街地となった地は中世の牛原荘と小山荘の境界の地であった。これらの地には鎌倉期において市が立っていた可能性は極めて高いと思われる。また遠敷郡の東市場(小浜市)が知られるようになるのは文明三年であるが(「明通寺寄進札」)、鎌倉期の遠敷郡東郷と西郷の条里を復原した研究成果によれば、この東市場はまさに東郷と西郷の境界の地に位置しているのであり、この市場も鎌倉期にさかのぼると考えてよいのではないだろうか。さらに遠敷郡須部社(上中町)が商売の神である恵比須を本地とする蛭子の神の降臨した社であることから、「当国遠敷郡・三方郡諸商人」や「魚類商人」などが集まって春秋二季の祭礼に「あきない」をしたというのは、そのことを記した文書のいう養老三年(七一九)のこととは到底信じがたいが(資9 須部神社文書一号)、この神社が遠敷郡と三方郡の境界の地にあることを考えるならば、鎌倉期のことと考える可能性はあるように思われる。近世に記された『稚狭考』は、昔よりあったと考えられる市として遠敷郡東市場のほか三方郡河原市・郷市と大飯郡本郷の市場を挙げているが、これらの市場のなかにも鎌倉期にさかのぼるものがあったとみられる。
写真61 須部社(上中町末野)

写真61 須部社(上中町末野)



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