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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第六節 荘と浦の変化
    四 市場と銭貨流通
      市場の形成
 代銭納が広がるということは、荘民たちが生産物を比較的近いところで換金しうる市場が存在することを示している。若狭においては寛元元年に太良荘の地頭の非法として、後藤次真恒という荘民が市場で銭二〇文を求めたことが罪にあたるとして科料一貫文を責め取ったことが挙げられている(ほ函八)。記事が簡単なため具体的な様子を知ることができず、またこの市場がどこにあったのかも未詳である。しかし、鎌倉前期から荘民が銭を求めて付近の市場に出入りしていたことは確認しうる。鎌倉後期になると、一月に三回ほど定期的に市が開催される三斎市があちこちに成立したことが全国的に知られるようになる。若狭・越前においては史料の制約から鎌倉期の市場について多くのことを知ることができないのであるが、いくつかの例を挙げておきたい。
 まず、確実な初見としては建武元年にまで降るが、若狭二宮である若狭姫社の門前にあった遠敷市が挙げられる(は函九〇)。この年の十一月二十七日が市日であったので、太良荘の百姓新検校らが売買のため銭三貫二五〇文を持って遠敷市庭に赴いたところ、前日太良荘に乱入して年貢・資財を奪っていた守護所の武士が現われ、百姓の持っていた銭と市庭で購入した絹・布などを奪い取るという事件がおこっている(二章一節三参照)。「市日」であったとみえているから、遠敷市は定期市であったことがわかり、またこの百姓が銭貨を持って市庭に赴き絹・布を購入していることからすれば、彼らは商人的な性格ももっていたと考えられる。そのほかでは元徳二年(一三三〇)の遠敷郡西津荘年貢目録に「市屋形」一段三〇〇歩が記されているから、この地にも市が開かれていたことがわかるが、屋形という大きな建物があったことをみると、市場というより町に近い景観を帯びていたのであろう(資8 大音正和家文書四八号)。また三方郡倉見荘において永仁三年に市姫社があったことが知られるから、ここにも市場があったと推定され(同二一号)、はるかのちの史料であるが、文明元年(一四六九)にみえる「くらみいちは」がそれに相当するものかと考えられる(資9 明通寺文書七〇号)。



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