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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
     二 霜月騒動と北条氏の進出
      訴訟の頻発と得宗の「徳政」
 弘安の徳政は公正かつ的確な訴訟の裁判をめざす「権利保護」の精神の昂揚を根底にもっていたが、それは逆にこのころ、いたるところの荘園・公領で迅速・正確な判決を求める訴訟がおこっていたことを物語っている。そしてそうした紛争の根は、深く社会の動揺と関連していたのである。
 こうした相論はこの時期、和与中分によって解決されることが多くなっており、弘安元年十二月に大野郡泉荘三ケ郷について、地頭前安房守藤原長継が四五〇貫文を領家に進めて雑掌の訴訟を止めたのはその一例であるが(資2 京大 一乗院文書二号)、他方で弘安十年から正応二年の今立郡方上荘での衝突のように、訴訟の当事者が「城」を構えて烈しく対立するような状況も各地でみられた(本章六節五参照)。
 若狭の太良荘でも、前述したように助国名の相論を契機に地頭若狭忠兼は五〇余人の人勢を率いてその早田の刈取りを強行し、阻止しようとした寺家使の中綱・八幡神人を打擲・蹂躙し、黄衣を破損するという挙にでた。そして父定蓮のときに不法とされた課役を当然のように賦課し、荘を自らの進止(支配)のもとに置こうとしたのである。
 自らの不手際からこの介入を招いた預所浄妙は、父定宴のときからの懸案のすべてを改めてとりあげ、百姓たちにも支えられつつ地頭の非法を六波羅に訴え、正応二年までに順調に三問三答を終えた。しかしその後、奉行人を招待してもてなすなどの浄妙の懸命の努力にもかかわらず、この訴訟は全く動かなくなってしまうので、結局浄妙は息女に預所職を譲って死去した。この事例が示すように、平頼綱の専権をふるう幕府の裁判は、それを促進しようとするさまざまな方策は打たれたものの停滞し、次第に社会に不満をひろげていった。
 正応三年三月九日、霜月騒動のさいの泰盛派で多くの犠牲者を出した小笠原氏の一族浅原為頼が、突然伏見天皇の内裏に乱入してこれを殺害しようとし、駆けつけた篝屋の武士に討たれるという事件がおこった。このとき為頼の自殺した太刀が、遠敷郡名田荘の大部分をこのころ伝領した三条実盛の宝刀だったことが判明し、実盛は六波羅に捕らえられ、この事件の背後に亀山法皇がいるとの疑惑もあったが、結局実盛は処罰されることなく終っている。ただ、このような霜月騒動の泰盛派の動きがこのころ目立つようになっているのは、やはり平頼綱の政権に対する反発を背景にしているといってよかろう。
 正応五年にはモンゴルが再び襲来するとの風聞があり、十月五日に関東は「異国降伏御祈」をまたも諸国に命じ、同十三日に得宗公文所はこれを若狭守護代工藤杲禅に施行し、杲禅の代官佐束入道西念はさらに遠敷郡の地頭・御家人・預所に充てて、領内の主な寺社の宜・別当に祈を下知することと、十二月一日・二日のころに関東に巻数返事を送進するので十一月中に巻数を届けることを命じた(リ函一九)。もとより越前の守護後藤筑後入道(基頼)にも同じ命が下っていたに相違ない。そして関東はこれを契機に鎮西に対する統轄を強化すべく北条兼時・名越時家を「異国打手大将軍」とし、鎮西の武士たちに「異国合戦」の用意を下知した。翌六年三月七日、こうした任務を帯して兼時は鎮西に向かって出発したが、その直後の四月二十一日、得宗北条貞時は平頼綱・助宗父子を攻撃し、これを討ち滅ぼしたのである。
写真48 若狭国守護代工藤西念施行状案(リ函一九)

写真48 若狭国守護代工藤西念施行状案(リ函一九)

 こうして権力を完全に掌握した貞時は、山積した訴訟の解決をまさしく専制的な手段で強行しようと試みた。永仁元年(一二九三)十月、貞時は引付を廃止し執奏の制を定め、いっさいの最終決定権を手中にして訴訟の即決主義の方針を貫こうとしたので、停滞していた太良荘の雑掌と地頭の訴訟もそれにともなって動きだした。
 永仁二年四月に東寺供僧の雑掌尚慶と地頭若狭忠兼の代官良祐との間で和与が成立し(ヒ函一六、イ函一五など)、そこで寛元・宝治の裁決をほぼ再確認した一一か条を双方に確認させたうえで、そのすべてを盛り込んだ関東下知状が翌三年五月七日に下り、八月十日六波羅探題はこれを施行して、八年越しの訴訟は一応終止符を打った(せ函武四、『教王護国寺文書』一五八号など)。とはいえこれは得宗貞時の専制的な強権による和与であり、助国名をめぐる三人百姓と国友との対立、百姓名主職の補任をめぐる預所と地頭との競合はいっこうに解決しなかったのである。しかし貞時はさらに進んで永仁五年、よく知られている徳政令を発したのであり、得宗の「徳政」はここに頂点に達したといってよかろう。
 翌六年の十月十七日に貞時は自らの袖判で下知状を発し、有栖川清浄寿院の雑掌の訴えた今立郡山本荘・伊勢国原御厨・河内国大窪荘のことについて裁決を下している(資2 円覚寺文書二号)。これらの所領は「御内御相伝」―得宗家の相伝であるが、泰時のとき清浄寿院に将軍頼経が寄進した「仏陀施入の地」なので、得宗進止の地として清浄寿院に返付すること、造営料として弘安九年に円覚寺に寄進された山本荘については造営が終わったのちに返すことなどを貞時は下知しているが、このように貞時が署判を据え、ときに三問三答までを経た得宗による裁許状は、このころからその数を増している。
 それは貞時が訴訟の解決促進のためにそれなりの努力をしたことを示しているともいえるが、正安三年(一三〇一)に貞時は突如として出家し、従父弟の師時に執権の地位を譲った。その二年前の正安元年、若狭の守護職についても貞時は従父弟宗方に譲っており(「守護職次第」)、政治の表舞台からいったん身をひいたのである。



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