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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第五節 得宗支配の進展
     二 霜月騒動と北条氏の進出
      一・二宮と寺社の造営
 しかし、弘安の徳政の余韻はなおあとをひいていた。興行令に応じて若狭一・二宮、正八幡宮の造営を推進する宜光景の動きをうけて、国衙の留守所はその造営用途を一国平均役―「天役」として荘園・公領に賦課し、弘安九年になると太良保にも切符が下されてくる。十月二十八日に東寺供僧は先例に任せてこれを免除されたいと訴えており(ハ函四)、こうした抵抗は各所であったものと推測されるが、光景はこの状況を税所代工藤杲禅の代官青柳平次光範を通じて関東に訴え、正応元年(一二八八)五月十三日には役所を催してその功を終えるべしとの関東の下知が六波羅探題充てに下された。六波羅は七月一日これを本郷地頭美作左近大夫将監隆泰・松永保地頭多伊良兵部房頼尊に充てて施行し、頼尊は七月十二日この命を地頭・預所・御家人に伝えた(ム函八)。
 このように一・二宮の造営は、関東―守護得宗―税所代得宗御内人の力を背景に、国内の有力な地頭二人を造営奉行とし、若狭のすべての荘園・公領への平均の国役によって推進された。正応二年六月、太良荘について東寺供僧は国宣を用いないとして抵抗したが、宜光景・税所又代官青柳光範は数十人の使者を荘内に放ち入れ造営用途を苛責し、この不当を訴えた雑掌浄妙の訴状を六波羅は八月十五日に守護代へ伝えて弁明を求めている(ア函三二)。しかし十一月になっても税所代や社司は六波羅の御教書に従わず、用途を譴責してやまなかったのである。
 こうして宜光景は得宗御内人の実力によって用途の徴収を強行し、若狭の一・二宮と正八幡宮の造営を完成したものと思われるが、同じころ越前の一宮気比社の造営も進められていた。しかし造営料所七か郷をめぐって紛争がおこり、国司・目代・雑掌が神人を刃傷したといわれ、正応二年九月に神官たちは神輿を動かし、国司・目代が改替されなければ帰座しないと訴え続け、朝廷では気比社検校の妙香院僧正を通じてしきりにこれをなだめている(『吉続記』同年九月十三・十九〜二二・三十日条)。
 この造営事業がその後どのようになったかは明らかでないが、こうした一・二宮だけでなく、若狭では弘安十一年正月に若狭国の第二の御願所とされる税所領の谷田寺の院主僧重厳が、料田一町余を税所代伊賀光政をはじめ渋谷十郎入道の代官三栖家継やさらに当代官工藤杲禅も顛倒したまま免田として認めないので、本堂・鎮守宮・鎮守宮拝殿・温室・二階楼門の五宇が大破に及ぼうとしていると訴えている(資9 谷田寺文書一号)。国衙はこの訴えを受けて、在庁の惣大判官代安倍氏が谷田寺の敷地に対する狼藉を禁ずる禁制を三月に与えたが(同二号)、これも一・二宮興行とも関連した寺院の興行であり、弘安八年九月二日に伊賀氏の代官日下朝忠・沙弥定意が武成名・西郷の田地六段大と畠一段を如法料田として神宮寺に寄進したのも(資9 神宮寺文書二号)、同じ流れのなかで理解することができる。
写真47 遠敷郡谷田寺(小浜市谷田部)

写真47 遠敷郡谷田寺(小浜市谷田部)

 また越前の丹生郡大谷寺について、おそらく地頭とみられる人の袖判を加えた文書で文永七年(一二七〇)七月二十日、同十四日の行事である夜相撲は仏事でも神事でもなくて人が多く集まるので喧嘩がおこり刃傷・殺害のもとになるために禁制するとされ(資5 越知神社文書二号)、弘安十年十一月の定書では、大小の訴訟や問題がおこったときには衆徒が一同して評定をして決すること、宝蔵を造り代々の重書や仏神物を納め、四季に決算し、その結果の財物の状態に応じて修理を加えることなどを定めている(同四号)。これも、若狭の寺社と同じ興行の動きの一環としてみてよかろう。



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