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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
  第二節 鎌倉幕府の成立
     三 守護と地頭・御家人の動向
      「下人」と荘の預と借上
 新たに補任された守護・地頭と現地の人びととのこのような紛争は越前・若狭の各地でおこっていたと思われるが、荘の経営をめぐって、領家と荘を請け負い預った人との争いも、また少なからずあったと推測される。
 越前の坂井郡榎富荘は後白河上皇の娘殷富門院が管領しており、女院に仕える女房民部卿局に与えられていた。民部卿局は乳父の外記入道にこの荘を預け、入道は「家中」から特に召し仕っている「さうてん(相伝)ふたい(譜代)の下人」藤内太郎(藤原惟光)を定使として荘の経営を任せてきた(資2 普賢延命法裏文書一・二号、以下同)。
 しかし外記入道は尾張国に所領があってそこに常住しているため、越前のこの荘はもっぱら惟光に預け、女院への年貢や民部卿局の相折(配分される得分)は、すべて惟光が自らの責任で荘から調達していたのである。
 榎富荘は国の定で一〇〇〇石余も得分のあるところなのに、女院領として課役が免除されているので、先の女院や局に対する責任を果たしたあとの得分をすべて自らのものとすることのできる惟光は「有徳」になり、そのうえ借上(金融業)をしてさらに富を積み屋地を得るなど、大変に豊かになっていった。
 ところが惟光は次第に、女院への毎月の「御菜米」をはじめ、年貢を納めないようになってきた。そこで女院側は惟光から結解(決算書)を出させたところ、未進が確定したので、惟光はその代物として京都の家地、さらに建永元年(一二〇六)には醍醐の家と敷地、和泉の田地二町二段一〇〇歩を女院側に進上したのである。
 そこで「御乳母」の「年来の下人」なのだからと、改めて惟光に荘を預けたところ、惟光は先の家地を自分の負物の代として醍醐の借上に差し押さえられたと称して奪い取ってしまうという不法を行なったと、民部卿局に関わりのある人が訴えている。
 事件はどのように決着したのかは未詳であるが、このように譜代相伝の「下人」といわれる人が荘を預かって富裕になっただけでなく、自らも借上を行ない、また別の専業の借上と結託して所領をわが物にしようとしているので、すでにこのころ荘園・公領の経営に関連して借上とよばれた金融業者が活発に動き、それにともなって所領が移動し紛争をおこしていたことを、この事件はよく物語っている。
 



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