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 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
    五 白山信仰について
      行場としての白山
 先に述べたように、もともと越前・加賀・美濃という別々の地域で白山に対する信仰が独自に発展していたわけであるが、やがて律令国家の成立にともない地方間の連絡が密になると、共通の信仰を有する人びとがほかの地域にも存在することを認識するようになった。さらに、仏教思想の影響を受けて白山が従来の遥拝する存在から修行の場としての存在へと変化する。『白山之記』によれば、天長九年(八三二)にこの三つの馬場が開かれたとある(『資料編』一)。年代の真偽はともかくとしても、平安初期にはその麓である越前・加賀・美濃に登路口が開かれて馬場と称し、それぞれの馬場から白山に登る道を白山本道あるいは禅定道と称するようになった。
 越前と美濃の馬場は白山中宮、加賀の馬場は白山本宮を中心とし、それぞれの別当寺として越前平泉寺・美濃長滝寺・加賀白山寺が存在し、白山修験の拠点として繁栄した。これらの別当寺は、やがて多数の僧兵を抱える有力な寺院となったが、古代から近世を通じて栄枯盛衰を繰り返し、明治初期の神仏分離を経て、現在では越前馬場の中宮平泉寺の地に白山神社(勝山市平泉寺)、加賀馬場の本宮に白山比神社(石川県鶴来町)、美濃馬場の本地中宮長滝寺の地に白山神社(岐阜県白鳥町)が建っている。
 これら三つの地域の信仰は、平安時代にしだいに融合的に捉えられるようになった。越前の馬場では、地元麻生津出身の僧である泰澄が行場としての白山を開き、また地元に平泉寺をはじめ多くの寺院を建立したとする伝えが広まっていたが、本来この泰澄という越前の僧とは関係のなかったはずの加賀や美濃の馬場においても、越前と同様に泰澄を白山信仰の祖とする観念が受け容れられるようになっていった。このような動向は、中央における神仏習合の発展、とくに平安後期の本地垂迹の観念にもとづく習合の動きに触発されたものと考えられている。
図116 白山三馬場と禅定道

図116 白山三馬場と禅定道

 『伝記』にみられるような、御前峰に白山妙理大菩薩、大汝峰に大己貴神、別山に小白山別山大行事を祀り、それぞれの本地仏を十一面観音、阿弥陀如来、聖観音とし、白山三所大権現と称するような形態も、このような過程で形成されたのであろう。すなわち、白山周辺の宗教者の集団が、天台・真言といった中央の有力な宗派と連携するとともに、自らの集団の伝統的権威を、とくに中央との関係で高尚なものとするために、ことさら泰澄の足跡を中央と結び付ける形で展開したことにより、本来の泰澄の伝に種々の潤色がなされて「泰澄伝」が形成されたとうけとることができるのである。このような動きは、おそらく最初に越前でみられ、泰澄ゆかりの寺院である越前馬場の中宮平泉寺が、白山信仰の中心地としての認識を受けるに至った。やがて加賀や美濃においてもこの動きに便乗する形で、同様に泰澄を祖師とする観念を抱くようになったと推察される。しかし、中央の側で白山信仰の中心地を越前馬場とする観念が形成されたとしても、加賀や美濃の馬場ですべてこの動きに甘んじていたわけではなく、幾分かの抵抗が試みられた。泰澄を越前出身の僧としながらも、その活躍の場を加賀馬場の領域内に設定した伝承や(『白山禅定和記』)、加賀馬場の白山寺がすすんで延暦寺の末寺化を望み平泉寺に対抗しようとしたことなどがその動きと考えられる。また白山神そのものの性格についても、地域や時代により相違点が見受けられたのであるが、泰澄が越前出身の僧である以上、中央の認識の面では越前馬場の優越性は否定できず、ほかの馬場では泰澄の存在をその信仰体系のなかに取り入れようとしたために、かえって地域の特色が失われることになったのである(下出積與「泰澄伝承と白山信仰」『白山・立山と北陸修験道』)。
 



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