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 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
    五 白山信仰について
      平安時代の平泉寺
 最後に、平安時代における平泉寺の性格についてふれておきたい。先にみたように、養老元年(七一七)越知峰から母伊野氏ゆかりの地に赴いた泰澄が、この地の東の林泉のあたりで白山神の託宣を蒙ったという伝えにもとづき、この泉の地に、泉の名にちなむ白山中宮平泉寺が建立された。この平泉寺から白山の山頂に向けて禅定の道が設定され、多数の験者・行者で賑わいをみせたが、平泉寺は平安時代中期のころから越前馬場の中心たる修験の道場として勢力を拡大し、多数の堂塔を備え、また衆徒(僧兵)を抱える寺院となった。そして応徳元年(一〇八四)には天台宗の延暦寺末寺となったと伝えるが、同時に大谷寺(丹生郡)、大滝寺(今立郡)、豊原寺・千手寺(坂井郡)といった越前の泰澄開創寺院の中心寺院として、白山信仰の発展に重要な役割を果たした。平安末期の治承・寿永の内乱(いわゆる源平の争乱)の際には、当時の平泉寺長吏であった斉明が、いったんは木曽義仲の挙兵に呼応して義仲方についたものの、平氏方に寝返り、結局敗れて殺されるというように、源平両軍の対立のなかで生き残りを賭けてのかけひきを行っている。このように、平安期に北陸地方に一大勢力を構築した平泉寺は、つづく中世を通じて典型的な地方の有力寺院として、混乱する社会のなかでその活動をくり広げていったのである(河原哲郎「越前馬場平泉寺の歴史的推移」『白山・立山と北陸修験道』)。



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