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 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
    四 越前以外の地域の寺院と泰澄
      越前の宗教文化と中央
 越前の文化の伝播という点では、白山をとりまく地域における白山信仰について同様の指摘を行うことができる。白山の登路口としての三馬場、すなわち越前馬場・美濃馬場・加賀馬場の存在にうかがわれるように、白山の麓の三つの地域で白山に対する信仰が、当初は相互に独立した形で発展したのであろうが、後世そのいずれの地域においても越前の出身である泰澄を白山の開創者とする共通の認識をもつようになった。このことは、白山の信仰に仏教的な要素が加わる過程で、越前の影響が美濃や加賀の地域におよんでいたことを示すものといえよう。いずれにせよ越前の地は、当時の北陸地方の宗教文化の中心地として栄え、ここで行われた信仰は、近隣諸国からさらに遠く都近辺の地域にまで影響をおよぼしていたと考えられるのである。
 ところで、白山の信仰を中央の宗派との関係で考える場合、その中心寺院である平泉寺が天台宗寺院であり、『伝記』も天台僧の浄蔵の口授をもとにしているなどのことから、『伝記』の性格に天台宗の影響を強く意識する見解も見受けられる。しかし、一概にそう言いきってしまってよいものかどうか、いささか疑念が抱かれるのは、伝に登場する道昭が日本における法相宗の祖と崇められる人物で、また玄も法相宗の僧であったという事実である。天台宗が一つの独立した宗派として確立する過程で、宗祖最澄は大乗戒壇の設立をめぐって南都(奈良)の諸宗と対立し、南都の学僧と積極的に論争した。とくに関東における法相宗の中心的な存在であった徳一との三乗一乗をめぐる論争は有名であるが、このような法相宗と天台宗との確執の経緯を後世の天台宗の高僧が知らなかったとは考えられない。もし仮に、天台宗の僧がことさら泰澄と道昭・玄といった法相宗の高僧とを結びつけた伝記を著述したとすれば、それは一体いかなる意図のもとでなされた作為ということになるのであろうか。
 今一つ指摘しておきたいのは、先に述べたように南山城の寺院に泰澄との関係が多く見受けられるが、この地域は興福寺の影響が非常に強かった地域であり、また金胎寺・大道寺など行場として発展した山岳寺院は、天台系でなく真言系の寺院であったことである。むろん、このあたりの行場は役小角を開基とするものが多く、この小角の住した葛城山はのち真言系の修験の行場とされたことから、これらの寺院も真言系の寺院であって不思議はないのであるが、最澄とは逆に南都の諸宗派と融合する姿勢をとった空海の存在を考慮すれば、やはり泰澄の伝は一概に天台宗との関係で形成されたものとはいえないことになるのである。



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