目次へ  前ページへ  次ページへ


 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
    四 越前以外の地域の寺院と泰澄
      泰澄関係の寺院
 越前以外の泰澄関係の寺院について考えてみることにしたい。表53は泰澄に関する伝を有する滋賀県と京都府の寺院のうち、主なものを掲げたものである。ここからうかがわれるように、奈良の都と越前との間に、多数の泰澄関係の寺院が存在している。そのうちには、滋賀県伊香郡高月町の渡岸寺があり、また滋賀県高島郡マキノ町の宗正寺・大崎寺などの十一面観音を本尊とする寺院で泰澄開基と伝えるところが存在し、また一方で、密教関係の寺院、とくに修行場としての性格を有する山岳寺院が非常に多いことが注目される。たとえば、行場として著名な京都府相楽郡和束町の金胎寺は、嘉吉元年(一四四一)の『興福寺官務牒疏』に、白鳳四年天武天皇の発願により役小角が開基し、養老六年(七二二)に「越智の泰澄」が再建したとある。同様に、この金胎寺の北の登山口にあたる京都府綴喜郡宇治田原町の地にあった大道寺(現在廃寺)も、天平勝宝八歳(七五六)泰澄の建立と伝える。この南山城と隣接する南近江の地にも、養老六年泰澄の開創と伝える岩間寺が存在する。ちなみに、南山城の地域には、山林の行場とともに、十一面観音を本尊とする寺院が多数存在し、また比較的古い時期に建てられた白山神社が残っている。このように、南山城には泰澄や十一面観音、白山信仰と共通する要素が数多く見受けられるのである。

表53 滋賀県・京都府の主な泰澄関係寺院

表53 滋賀県・京都府の主な泰澄関係寺院
 これらの近江や山城の寺院が、事実として何らかの泰澄の足跡に関係するものであるのか否か、容易に判断することはできない。しかし、少なくとも古代の宗教文化の中心地である平城京と越前を結ぶラインの上に同様の性格を有する寺院が数多く存在し、しかも中央で活躍した役小角や行基といった人物に混じって泰澄の名がみえることは、興味深い事実といえよう。中央で栄えた仏教文化が地方にも伝播した結果、地方寺院が建立されたり特定の信仰が行われたというように、中央から地方への一方向の捉え方をするのであれば、行基や空海の伝承にみられるように、中央で活躍した著名な僧の伝承が地方に残されるものである。道昭や行基が越前に赴いたと『伝記』にあるのは、その良い例といえよう。ところが逆に、越前の地方僧である泰澄の足跡が都近辺の地域に多数残されていることは、各地に勧請された白山神社と合わせて、非常に重要な意味を含んでいるように思われる。
 従来この点について、後世修行の場として白山の存在がしだいに中央でも認識されるようになり、その開創者とされた泰澄が山林修行僧の理想的な存在として受け取られて、やはり行場としての性格を有する山岳寺院にその足跡を残したとか、近江・山城といった気候条件によって実際に白山を遥拝できる地域で、その信仰が栄えた結果生じた現象であるとかいった解釈がなされている。たしかに、白山信仰あるいは行場としての白山の性格がしだいにこれらの地域でも認識されるようになり、その結果、白山と共通する要素を有する寺院に泰澄との関係にふれた伝が形成されたことは、十分に考えられるのである。しかし、越前における山林修行や十一面観音の信仰が中央の影響を受けて行われたものであれば、当然同様の性格を有する越前の寺院に、先の道昭や行基と同様に、役小角や玄などの開基と伝えられるものがもっと多く存在してもよさそうなものである。それがほとんど見受けられないのに対し、逆に中央で越前出身の泰澄の伝が多くうかがえることは、ある面では越前で展開された信仰の影響が中央にまでおよんで重視されたことを示すものとみなされるのではないだろうか。
 



目次へ  前ページへ  次ページへ