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 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
     三 十一面観音信仰について
      白山と十一面観音
 このような白山神と十一面観音を結びつける観念がいつごろ成立したのか、あるいは、白山信仰と切り離しても、越前でいつごろから十一面観音信仰の形跡が確認できるのか、判然としない部分が大きい。現在確かめられるところでは、越前国内に残存する十一面観音像も平安後期のものが最も古い部類であり、神仏習合の一般的な展開からしても、十一面観音を白山の本地仏とみなすようになったのは、せいぜい平安後期以降のことであろうと考えられている。しかし、ほかの地域の例から類推するに、越前においても、すでに奈良時代のころから十一面観音信仰が行われていたと考えても不都合はないのではないだろうか。のちに越前一の宮となった気比神社の神宮寺である気比神宮寺は、霊亀元年(七一五)に藤原武智麻呂により建立されたと『武智麻呂伝』に伝えられている(編一一五)。この『武智麻呂伝』は八世紀中ごろの成立と考えられるから、すでに奈良時代の段階で気比神宮寺の存在が知られていたことは疑う余地がない。とすれば、平安時代のような体系的な思想の裏づけはなくとも、すでに奈良時代の段階から越前では神仏習合のきざしがみえ始めていることになる。あるいはまた、足羽郡糞置荘のように東大寺領の荘園が多数設けられたことなどからしても、中央の官大寺と特別縁の深い越前では、観音信仰を早い時期に受け入れた蓋然性は高いように思うのである。
写真150 大谷寺木造十一面観音坐像

写真150 大谷寺木造十一面観音坐像

 では、何故に白山三所の中心である御前峰の白山神の本地仏が、十一面観音とされたのであろうか。平安時代の後期に盛んとなる浄土教の信仰において、その浄土を主宰する阿弥陀如来を奥之院(大汝峰)の本地とし、阿弥陀の脇侍たる観音を三所の中心である御前峰の本地仏としたということは、浄土信仰の発達にともなって阿弥陀信仰が隆盛する以前に観音信仰が盛んであった段階から、すでにそのような観念が成立していたためであると考えられよう(井上鋭夫「白山への道」『白山信仰』)。あるいは、時期により変貌する白山の様相が、観音変化と重なり合わせてイメージされたとも受け取られる。現存する十一面観音像を見ても明らかなように、観音像そのものが女性的なイメージでとらえられていたことからすれば、白山比という女神をいただく白山の本地としては、十一面観音が最もふさわしい存在と受け取られたのかもしれない。いずれにしても憶測の域を出ないものであるが、中央での十一面観音信仰の影響を受けていたとしても、その場合白山のイメージとうまく合致したが故に、十一面観音を御前峰の白山神の本地としたのではないだろうか。
  



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