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 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
     三 十一面観音信仰について
      古代の観音信仰
 次に注目すべき点は、白山信仰においては、十一面観音の存在がきわめて重要な意味をもっていることである。『伝記』によれば、泰澄が一四歳の時に夢に現われた高僧は十一面観音への帰依を説き、越知峰での修行中もこの観音を念じた。さらに白山天嶺の禅定にある緑碧池で白山神の本地仏である十一面観音を感得し、天平八年(七三六)には玄より十一面経を授けられ、翌九年には天然痘の流行に際して十一面法を修したという。
 変化を遂げることで有名な観音菩薩に対する信仰は、七世紀段階から見受けられたが、その性格については段階的な変遷がある。七世紀段階においてはとくに観音信仰とほかの釈迦や弥勒に対する信仰との異質な点を意識することなく、祖先追善など個人的な目的で観音像の製作が行われていたのが、八世紀になると国家的要請を受けて護国的な性格を有するようになり、さらにこれと並行して密教的な観音信仰が盛んとなった。その画期とすべきは天平十年代のころで、これは天平七年に帰朝した玄の将来した経典の書写が重要な契機となっていると考えられる。彼が天平七年に帰国した際に将来し、それにもとづいて書写された経典のなかに『十一面神呪経』といった十一面観音関係の密教経典が多く含まれ、このころから十一面観音に対する信仰が盛んとなり、ひいては奈良時代の後半に多数の変化観音像が製作されるようになった(速水侑『観音信仰』)。
 ちょうどこの観音信仰の変遷の画期となった天平年間に、泰澄が玄より十一面経を授けられ、十一面法を修して当時流行していた天然痘の鎮撫を祈ったことになる。この『伝記』の記事は、まさに当時の状況とまったく矛盾しないことになるが、逆に玄が将来した経典が契機となって、十一面観音の密教的な信仰が盛んとなったという知識なくしては書けない内容を『伝記』は有しているということができる。とすれば、『伝記』における泰澄と著名な中央の僧との接触の記事が、「極言すれば、『続日本紀』一巻が座右にあれば口授者は泰澄の伝記にこういった細工が容易に出来るくらいのもの」(下出積與「泰澄和尚伝説考」『古代史論集』上)などとは到底みなしえないことになるのではないだろうか。
 ここで改めて奈良時代の十一面観音の信仰についてみれば、密教的な信仰の隆盛につれて、藤原光明子の皇后宮職が発展した紫微中台で、十一面悔過という十一面観音に罪を懺悔する仏事が修されるようになる。のち東大寺の二月堂で恒例の仏事としてこの悔過が行われるようになり、今日まで続けられて、俗に「お水取り」とよばれ多数の参詣者を集めていることは周知の事実である(堀池春峰『南都仏教史の研究』上)。悔過という仏事が日本でとくに重視されたのは、在来の神祇信仰における禊や祓と共通する性格をもつためであるという指摘がなされているが、なかでも十一面観音を本尊とする悔過は、中央・地方、官寺・私寺を問わず、奈良時代から平安時代にかけて各地で頻繁に修された。今日でも、奈良・京都・滋賀などの各地に、この時期に製作された十一面観音像が数多く残されている。しかもそのなかには、たとえばもと大神神社の神宮寺の大三輪寺本尊であった奈良県桜井市聖林寺蔵の十一面観音像のように、もともと神宮寺の本尊、すなわち神仏習合時の神の本地仏として祀られたものも存在している。これは、密教および悔過の性格からくるところの神仏習合の現象と密接に関連するものと思われるが、白山神の本地仏もまたこの十一面観音なのである。



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