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 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
    二 山林修行と白山信仰
      山林修行と白山・泰澄
 白山とて例外でなく、古くから聖なる山、神の坐す山として、農民・漁民を問わず、これを仰ぎ見る地方の人びとの深い信仰の対象とされていた。聖地=修行の場という観念の展開を受けて、白山においても山林修行がさかんとなり、仏教思想の流布にともなって旧来の山岳信仰の要素と仏道修行との融合が生じたものと受け取られる。ことさらに指摘するまでもなく、越前の地は地理的な要因から大陸との交渉が盛んな土地であり、中央からの伝播を待つまでもなく、民間のレベルで仏教や道教の信仰が早くから入り込んでいた。実際、のちに述べる気比神宮寺の成立の事実をみても明らかなように、中央での流行以前に神仏混淆を受け入れる素地が越前では形成されていたのである。このような風土の影響もあって、のちに一層密教の修行地として白山の重要度が増し、『伝記』にみられるような白山神とその本地仏との関係が規定され、論理体系が整備されていったと考えられる。『伝記』の成立時期やその内容の信憑性から、泰澄が活動したと伝えられる奈良時代の段階では、この整備がどの程度進められていたかを、にわかに判じることはできないが、その祖型たるべき観念は奈良時代から存在していたとしても少しも不都合はないものと考えられる。
 「越の大徳」とよばれた泰澄について、彼が正式の手続きを経て僧の資格を与えられた官僧であったか否かについては判然としない。泰澄の伝記以外の史料で泰澄の名がうかがわれるのは、宮内庁書陵部所蔵の「根本説一切有部毘奈耶雑事巻第二十一」の奥書に「天平二年庚午六月七日、為上酬慈蔭、下救衆生、謹書写畢、泰澄」(写真149)とあるのが唯一の例であるが、時代的に矛盾しないとはいえ、この泰澄が白山を開いた越前の泰澄と同一人物であるか否かは明らかでない。もし『伝記』のいうように、天皇の病気平癒の功などによって泰澄に「禅師」や「大和尚位」といった地位が与えられたのであれば、間違いなく国家の公認を受けた僧であったことになるが、先述のようにこれらの『伝記』の記述が非常に疑わしく、後世の潤色と思われる要素が色濃いものであることからすれば、証左にはならないであろう。ただ、奈良時代に実在した泰澄という名の一人の僧の経歴とはいえなくても、そのような性格を有する僧が越前に存在した可能性は、かなり高いといわねばならない。この場合、泰澄のような修行僧は、もとより中央の認可を受けた官僧であったと考える必要はない。中央との関係は後世泰澄の権威づけのためになされた作為とみなす見解があるが、その可能性も十分に考えられよう。そして、天皇の病という不測にして国家の重大事に際しては、官僧であるか否かにかかわらず、地方で効験高いと評判のある僧についてはこれを都へ招聘し、看病に従事させ、しかるべき地位・報奨を与えるといったことは往々にして存在したと考えられる。
写真149 「根本説一切有部毘奈耶雑事巻第二十一」

写真149 「根本説一切有部毘奈耶
   雑事巻第二十一」

 平安初期に実在した興福寺僧の玄賓は、名利を厭い山中で修行を積んだが、桓武天皇の病に際し、詔により京に出て治病に努め、度者を賜わるとともに大僧都に任ぜられた。しかし彼は職を辞して備中の山中に隠棲し、修行の生活に戻った。のち再び招請されて都で平城上皇の看病に従事したが、やはり備中に戻って山中で生活したと伝える。この玄賓は、官僧ではあるが地方の山林修行僧が看病のために都へ召された典型的な例といえ、泰澄の場合と相通ずる性格が存在するといわねばならない。
 地方で山林修行を行い治病能力を有したという僧の例は、紀伊国牟婁郡熊野の永興など、平安初期に成立した仏教説話集である『日本霊異記』のなかに多く見受けられ、そのなかには私度と目される僧も存在する。このような例からすれば、玄賓と同様に山林修行の経歴と治病能力を有し、とくに越前の地域から都へ赴いた複数の僧の姿が、やがて泰澄という一人の代表的修行僧の人物像に凝縮されて伝えられたという可能性も否定することはできないのである。



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