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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     四 若狭国分寺跡・若狭神宮寺
      塔跡
 塔跡は中門の東側にあって、基壇上面は西南部を除き、ほとんど削平されていた。礎石は南側柱列西寄りの二個が元の位置に残されていたが、そのほかはすべて抜きとられていたのである。二個のうち、西南隅の礎石は長径二メートル、短径一・三メートル、その東側礎石は長径一・六メートル、短径一・一メートルが計測された。これ以外の礎石は発見されなかったが、幸いにも、旧礎石位置にはその据付掘方と根石が残されており、塔初層の平面規模を推定することはできた。
写真138 発掘後の塔跡

写真138 発掘後の塔跡

写真139 整備された塔跡

写真139 整備された塔跡

 塔跡礎石配列は三間等間隔となっており、柱間寸法は二・七メートルであった。したがって、塔の初層辺長は八・一メートルとなり、通常国分寺にみられる塔跡より小規模である。国分寺創建の詔勅では七重の塔とされているが、七重の塔の建立には一〇〜一二メートルの初層が必要とされており、これ以下では五重の塔しか建たないといわれている。五重塔として考えられている国分寺は不思議なことに、佐渡・能登・若狭・伯耆・出雲など、日本海側に多い。しかし基壇は意外に広くよく残っていて、北西部分では礎石据付中心から三・六メートルが計測され、一辺が一五・三メートルの方形であったことが知られる。このことは巨大な塔心礎をもった越前の篠尾廃寺や大虫廃寺などの基壇に比して大きく、白鳳期と様相の異なることを示している。基壇の高さは現状からの推測ではさほど高かったとは考えられず、一メートル以下ではなかったかと考えられる。
 しかし、この周辺からは一片の瓦も出土しておらず、瓦をともなわなかったことを示している。ただし、南東方向に直線的に塔が倒壊したと思われる状態で水煙の一部と風鐸の残欠が発見されており、塔の屋根上には相輪の存在したことを示している。ここでは国分寺建立の詔にかかわる遺物は発見されていない。おそらく火災によって焼失したのであろう。周辺を調査した際にはかなり焼けた痕跡がみられたが、廃絶の年代は明らかにできなかった。



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