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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     四 若狭国分寺跡・若狭神宮寺
      位置と遺構
 若狭国分寺跡については、その創建年代に疑問があり、十分な検討を必要とする。白鳳前期にさかのぼる軒丸瓦の残欠および布目瓦が溝状遺構で検出されており、国分寺以前に寺院もしくは官衙建造物が存在した可能性も考えられるからである。しかし、越前国分寺の所在が明らかでないので、謎をもちつつも、確実に遺構の残る若狭国分寺跡はやや詳しく述べておかなければならない。
 若狭国分寺跡は小浜市街地の東側約四・五キロメートルの国分に所在する。この地域は小浜平野を貫流する北川の沖積平野のもっとも幅広い部分に位置し、北川の支流松永川と遠敷川が東・西・北を画し、南はマンダイ山の山裾を東西に走る二七号線で区切られた三角形の地形を形成する。両河川に挟まれたきわめて不安定な立地だが、この状況は近代の河川改修によるもので、伝承では河道は現状とは異なっていたという。遺跡所在地は現在、宅地・水田・畑地・原野となっており、現在の国分寺(曹洞宗)の境内地を含む。この国分寺は江戸初期の再建と伝える釈迦堂を配し、本尊に木造釈迦如来坐像(市指定)を安置する。釈迦堂の西側の堂宇には元尼寺庵の本尊と伝える木造薬師如来坐像(重文)と阿弥陀如来坐像(市指定)がある。
写真137 若狭国分寺跡付近

写真137 若狭国分寺跡付近

 国分寺跡周辺の遺跡としては、寺域内に若狭地方最大の円墳(六世紀)があり、東には前述の太興寺廃寺・古墳群が所在する。また西側の遠敷・検見坂一帯には前方後円墳を含む円墳・横穴合わせて一五〇基が群集し、若狭最大の古墳密集地帯となっている。さらにこの前面の平野部にはかつては条里遺構もあって、この地域が古代若狭の政治・文化・経済の中心地であったことを示している。
 礎石は発掘調査以前すでに発見されていたが、国分寺地域は昭和四十三年度より圃場整備事業が計画され、遺構の破壊されるおそれが生じたため、昭和四十七〜四十九年の三か年で調査が行われた。それによって規模は寺域を画した溝の検出で方二町(二一八メートル四方)と判明し、伽藍配置は南大門・中門・金堂・講堂が直線に並び、東に塔を配する形をとっていた。これにより昭和五十一年に国指定史跡となり、環境整備され現在史跡公園として活用されている。なお各遺構について簡単に述べておきたい。
  



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