目次へ  前ページへ  次ページへ


 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
    三 若狭の初期寺院
      国分寺に転用された太興寺
 前述のように、創建当初の太興寺がどの氏族の氏寺であったのか明らかではないが、この地域の平野部には五世紀末ごろの前方後円墳をはじめ、埴輪をともなう円墳五基が所在し、廃寺東側の天神山には六世紀代の前方後円墳・円墳四〇基が群集するなど、太興寺を建立する基盤は十分にあったと考えられる。
 太興寺は瓦をみる限り、白鳳期から奈良期まで確実に存続したと推定される。前述の第U型式がここで検出されたことは、太興寺が八世紀中ごろには官寺として存在した可能性を秘めており、それはほかの事例から国分寺以外に考えられないのである。だが、同じ時期に現在の若狭国分寺が創建されたことになっており、矛盾することになる。
 若狭国分寺跡の発掘結果では、基準になるべき瓦はまったく検出されていない。同じ年次に太興寺には瓦が使用されているにもかかわらず、官寺に瓦を使ってないのは一体どうしたことであろうか。このことは国分寺創建とのかかわりからきわめて重大な謎となる。国分寺に瓦の存在しなかったのは、天平十三年(七四一)国分寺建立の詔勅当時には建立されず、とりあえず太興寺を整備転用したからだとは考えられないであろうか。太興寺廃寺出土の第U型式の細片はそれを実証したともいえよう。
 



目次へ  前ページへ  次ページへ