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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
    三 若狭の初期寺院
      出土瓦
 瓦は同一型式の軒丸瓦二点(写真136・図113―1・3)と細片ながら型式の異なる一点(写真136・図113―2)があり、このほか平瓦多数が検出されている。便宜上前者を第T型式、後者を第U型式と仮称するが、第T型式は双方ともに複弁七葉連華文で表現され、外区は内傾して雷文が施されている。これは、基本的には奈良の紀寺に標式遺例を求められるもので、白鳳期に比定される瓦である。この様式の分布は畿内を中心にひろがりをみせ、奈良三・京都六・大阪八・滋賀四となる。さらに東海地方では三重・愛知に各一、山陰では鳥取一、北陸では石川二・福井(若狭)一とかなり広範囲に分布する。
写真136 太興寺廃寺出土瓦

写真136 太興寺廃寺出土瓦


図113 太興寺廃寺出土瓦の拓影

図113 太興寺廃寺出土瓦の拓影

 北陸の場合、石川県南部(加賀市)と小浜市にこの系類がみられるものの、軒丸瓦中房に若干の差があり、伝播経路の異なることがうかがえる。これらは過去一貫して紀氏に関連する寺院として認識されてきたが、近年これを否定する説が出されており、むしろ、蘇我氏など大豪族の政治的影響力によるとされている(森郁夫『日本の古代瓦』)。
 太興寺廃寺も同様で紀寺様式を継承するが、紀氏との関連はまったく認められない。紀氏がそれほど広範囲に影響をおよぼす力をもっていたかどうかも疑問である。若狭の場合、後代の承和六年(八三九)一月に紀松永が国司に補任されているが(『続日本後紀』)、創建当初では紀氏とのつながりは明らかでない。
 ではどこの影響をうけたのであろうか。太興寺出土の軒丸瓦中房の蓮子は、加賀市の保賀・弓波廃寺とは趣を異にし、三+八の形をみせている。この形態は北白川廃寺(京都市左京区)と大宅廃寺(京都市山科区)の出土瓦にみられるもので、太興寺がこれら寺院の影響をうけたと考えられるのである。もっとも、太興寺の複弁七葉に対して両廃寺とも複弁は八葉となっており、必ずしもそのままとはいえず、伝播のなかで若干の変化のあったことが認められ、簡略化されたことも考えられよう。
 しかし、北白川廃寺の影響をうけたことはまず間違いはないと推測される。北白川廃寺は、昭和九年に発見されたもので、瓦積み基壇、多くの軒丸・軒平瓦、鴟尾残欠などが発見された(京都府『北白川廃寺阯』)。そののち、昭和五十五・五十六年度の調査(京都市『北白川廃寺跡発掘調査概要』)や平成二年度の調査(京都市『北野廃寺・北白川廃寺発掘調査概報』)でもかなりの遺構が検出され、壮大な建物をともなう寺院であったことが明らかにされた。同じく大宅廃寺も昭和三十三年の発掘調査で建物跡が発見されている(坪井清足「大宅廃寺の発掘」『仏教芸術』三七)。  一方、若狭太興寺廃寺では礎石が残るだけで、未発掘のため伽藍配置は不明だが、伝承地籍と瓦散布地からの推測ではさほど広い範囲とは考えられず、建物もまた北白川・大宅両廃寺などより小規模だったであろう。両廃寺のうちとくに北白川廃寺は、白川通りと、山中越えをして近江(穴太)へ抜ける道が交叉する位置にあって、北辺への道は現在も鯖街道として若狭小浜へと通じており、「京は遠ても十八里」とうたわれる街道の京側の出発点にあたる。さらに賀茂川・高野川流域一帯には北白川廃寺だけではなく、同様の軒丸瓦をもつ法観寺・がんせん堂廃寺・おうせんどう廃寺・板橋廃寺などが所在し(森前掲書)、若狭街道の周辺に多くみられるのである。
 北山城(京都盆地)は古代において秦氏集団とかかわりをもった地域であり、平城宮跡出土木簡から秦氏集団の存在が知られる若狭国との関連も考えねばならないであろう。もっとも、それによって若狭太興寺が秦氏関連の寺院とはいえないが、太興寺と直線的に対蹠する太良庄に白鳳期の金銅製弥勒菩薩が所在することも記憶にとどめておきたい。
 さて、ここで問題になるのは、細片ながら雷文縁軒丸瓦とは性格および年次の異なる第U型式の軒丸瓦(写真136・図113―2)が検出されていることである。これは早くから河原純之が平城宮の瓦に類似した瓦と指摘しており、注目されていた。しかし、一片のみであまり重視されなかったのである。ところが、同型式の完形軒丸瓦が若狭神宮寺で発見されていたことが最近判明し、再検討されることとなったのである。いうまでもなく、この瓦は、平城宮第二次朝堂院跡から出土したものと同系類で、六二二五型式とよばれ、八世紀中ごろという限られた時期に使用されたと考えられている(奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査報告』七)。美作国分寺跡・同国府跡など全国的に幅広い分布をみせており、中央官衙の瓦が地方へ波及したことを示している。このことは国家の介入を意味し、同時に官窯工人の移動も推定されよう。美作の例では、官衙に使用されていた瓦がそのまま国分寺に転用されている。これ以外にも平城宮系の瓦は多く使われているが、すべて官衙にともなうもので、いずれも国家の関与する建造物と推定されている。
 若狭では国府・国衙は未確認だが、多くの事例から太興寺出土の第U型式がそれらと同様の形態を示すと考えるならば、当然若狭国分寺にかかわってくる。
 



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