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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
    三 若狭の初期寺院
      興道寺廃寺
 興道寺廃寺は、三方郡の東部、美浜町を貫流する耳川中流左岸の興道寺「観音畑」周辺に所在する。この地域は耳川に接して小高い丘陵を形成し、古くから布目瓦の出土があって観音畑廃寺との別称もある。平野のほぼ中央に位置し、この北側約一キロメートルの地点では国道二七号線に接して前方後円墳獅子塚があり、廃寺の西側平野部にも数基の群集墳があった(土地改良で一部を除き消滅)。さらに南側山裾には獅子塚に須恵器や埴輪を供給した興道寺窯跡が所在するなど、六世紀代におけるこの地域の活発な動きがみられ、興道寺廃寺建立の素地が培われていたことを知ることができる。廃寺は大正年間の福井県農事試験場建設のとき多数の布目瓦が出土したことで知られ、昭和三十三年十月には観音畑地籍で地元の川岸・高橋らによって完形品が採集された(写真133)。しかし、土地改良にともなうその後の部分調査でも遺構は検出されておらず、伽藍などの形態は不明である。もっとも丘陵状の地域は調査されておらず、今後に大きな期待がもてる。 写真133 興道寺廃寺出土瓦

写真133 興道寺廃寺出土瓦

 この地域で採集された遺物は、須恵器・土師器・施釉土器など多数あるが、もっとも多いのは瓦類で、水野和雄は軒丸・軒平瓦ともに三型式に分類している(『北陸の古代寺院』)。それによると、第T型式(図112―1)は単弁八葉蓮華文で一+八の蓮子をもち、外線は二重圏文がめぐると推定されている。この種類は深草廃寺にも出土例があり山田寺様式の系統をひくという。第U型式(図112―2)は素弁一〇葉蓮華文で同じく一+八の蓮子を配する。第V型式(写真133)は素弁九葉蓮華文で一+五の蓮子をもち、外区には一三個の珠粒を不規則に配し、周縁には細線の鋸歯文がめぐる。これら出土瓦から、当廃寺の創建は白鳳期中ごろと推定され、七世紀後半〜八世紀初頭のきわめて短期間の存続であったことが考えられる。
 さて、興道寺廃寺の檀越にふれなければならないが、その設定はきわめて難しい。この地域は三方郡弥美郷に比定され、藤
図112 興道寺廃寺出土瓦の拓影

図112 興道寺廃寺出土瓦の拓影

原宮跡出土木簡では「耳五十戸」「耳里」「美々里」、平城宮跡出土木簡では「耳郷」「弥美郷」と記されるところである(第四章第一節)。廃寺の対岸、御岳山(海抜五四九メートル)の西側の山裾には、若狭耳別の祖と伝承される孝元天皇の孫「室毘古王」を祭神とする式内社弥美神社が鎮座し、前述の獅子塚古墳の被葬者も室毘古王にするなど、耳別に関する伝説が多い。たしかに平城宮跡出土木簡には、「若狭国三方郡弥美郷中村里(別君大人三斗)」の木簡二点(木五二・五三)があってそれを示唆するが、同じ耳郷のもので「物部□万呂」の記載木簡もある。さらに出土例の少ないこともあるが、大宝令以前の木簡では「土師安倍」「秦勝」などがあって、ここでは別君がみられない。しかし、耳川流域の集落はすべて弥美神社とかかわっており、旧耳荘を単位とするまとまりを見せている。この耳川をさかのぼると粟柄峠を経て近江へと続き、文化的には近江の影響が大きく、近江に類例の多い石棚のある横穴式石室をもつ浄土寺古墳もある。さらに三方郡全域でみれば、平城宮跡出土木簡に記載の海部氏や、とくに丸部・粟田など和迩氏系の多いことが注目され、興道寺廃寺の檀越は視点を別君一族に置きながらも、なお一考を要するであろう。
 ただし寺院跡は美浜町域のみではなく、三方町にも存在する可能性が考えられる。昭和九年十一月、臥竜院庫裡台地下室の表面下五尺の所で布目瓦片が出土し、さらに同年夏、納屋の付近でも発見されていることで明らかである(館熊吉『三方区沿革史』)。この地域は古代では三方郷に比定されており、中世でも郡の中心地として存在した。周辺地には奈良・平安期の須恵器が出土し、「郡厨」の墨書土器もあって郡衙の所在する可能性も考えられ、注目されるところである(第四章第二節、第七章第一節)。
 



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