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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     二 越前の初期寺院
      気比神宮寺
 北陸道総鎮守として重きをなした式内社気比神宮は、本来海洋性氏族集団の神として存在したことがうかがわれる。しかし、『古事記』にみられる応神天皇との替名や、気比大神への参拝で大和朝廷と深いつながりをもったとされる伝承があり、この関わりから、国際的拠点として重視された角鹿津と連帯しながら国家守護神へと発展したことが考えられる。したがって神階も高く、また神封も二四四戸と若狭比古神社の一〇戸と比して格段に多い(『新抄格勅符抄』)。また、その神宮寺は「藤氏家伝」によると霊亀元年(七一五)藤原武智麻呂が霊夢によって建立したことになっており(編一一五)、諸国神宮寺成立の記録としては若狭神宮寺と並んで古い。
写真132 気比神宮寺・食堂(「気比宮古図」)

写真132 気比神宮寺・食堂(「気比宮古図」)

 気比神宮に残る「気比宮古図」には、不規則な伽藍配置ながら神宮寺が記されており、北塔・南塔が存在したことを示している(写真45・132)。神宮寺と書かれた堂は桁行七間、梁間五間に描かれており、隣接の食堂の五間・四間より大きく壮大な建造物である。また神宮に比肩する境内地を占有し神宮寺が大きな力をもっていたことが知られる。ここでは若狭神宮(願)寺とは異なり、「気比大神御子神宮寺」と位置づけられ、気比大神との連帯がみられるのである(『敦賀市史』通史編上)。とくに九世紀代では定額寺として存在したが、以後は史書にみられない。現在、遺構としてはまったく確認されておらず、部分的な調査で若干の布目瓦細片が発見されたのにとどまる。瓦は布目が細かく、古い様相がみられ、白鳳期までさかのぼる可能性もあって、あるいはのち敦賀郡司となった角鹿直一族とのかかわりも考えられよう。
 



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