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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     二 越前の初期寺院
      幻の越前国分寺
 大虫廃寺を越前国分寺と推定することの可否について、水野和雄は疑問をもちながらも、奈良期の瓦が出土するのはここだけとの説(斎藤優『大虫廃寺』福井県文化財調査報告二一)を取り上げ、その可能性を肯定している。一方、久保智康は八世紀前半〜後半に属する瓦の存在を否定し、国分寺への転換を契機とした造営活動はなかったとの見解を示した(『北陸の古代寺院』)。いずれにしても現在確認されている小規模な塔跡基壇では国分寺跡とは断言できないであろう。
 塔跡についていえば、七世紀末ごろまでの塔の初層辺長はおおむね六・三メートルで形成され、小規模なものでは五・一〜五・四メートルとなっている。これが八世紀代になると南都諸寺院にみられる一〇〜一二メートルの初層辺長となり、基壇も一辺一六〜一八メートルで形成されるようになるのが一般的な傾向である。とくに国分寺の塔は、定型化されて普及したと考えられ、柱間寸法も一間が二・七〜三・三メートルが多いことが指摘されている(三輪嘉六『国分寺』日本の美術一七一)。
 ちなみに後述の「若狭国分寺跡」では一間が二・七メートルと計測されており、こうした建造物の規模からも大虫廃寺を国分寺とするよりも、むしろ氏寺としての要素が強く感じられはしないか。当廃寺の北方には官衙的な性格をもつ高森遺跡があり、また古代の丹生郷に比定される地域でもある。高森遺跡を丹生郡衙跡とする説は若干疑問があり、丹生郷の集落にともなう遺跡か、もしくは駅家跡であった可能性も想定され、なお検討の必要があろう。  丹生郡の中心地である武生市周辺は、東の野々宮廃寺、中央に深草廃寺、西に大虫廃寺とほぼ按分した形で古代寺院が分布し、見事に等分化されているのである。これにともなう氏族集団もまたそれぞれに付属した形をとっており、野々宮廃寺には味真公があてられるし、そのほかは天平三年(七三一)二月二十六日付「越前国大税帳」(公二)に「郡司佐味君浪麻呂、主帳丹生直伊可豆智」とあることから、佐味氏を深草廃寺、丹生氏を大虫廃寺にあてることも可能であろう。もちろん、これらは推定の域を出ないが、とくに平野部の中央に位置する村国遺跡では、昭和六十二年の発掘調査で「佐味」「佐家」「佐印」「佐」など佐味氏にかかわる墨書土器が発見されており、佐味氏が盆地の中央を占有していたことがうかがえる。一方、丹生郷遺跡では「丹生郷長」の墨書土器が検出されるなど(武生市教委『大虫廃寺・野々宮廃寺』)、先の推測を肯定する方向の事例が発見されている。
 さて越前国分寺だが、天平神護二年の段階では確実に存在しているのである。同年の「越前国司解」(寺四四)に「国分金光明寺領」として丹生郡椿原村のうちで「七町二六四歩」が記されているが、この寺田は佐味入麻呂の墾田を購入したものであることを示している。本家筋と思われる佐味君浪麻呂は郡司であり(公二・三)、郡司が国分寺に関与することはしばしば認められ、たとえば武蔵国分寺では年次は下がるが、焼け落ちた七重塔の再建を男衾郡大領壬生吉志福正が行った事例がある(『続日本後紀』承和十二年三月二十三日条)。
 国分寺田にかかわった佐味一族が国分寺に関与したことが考えられ、彼らの支配地内に入る深草廃寺の存在が大きく浮かび上がってくる。前述のように、深草廃寺が国府寺ではないかとの見解は、天平五年閏三月六日付「越前国郡稲帳」(寺三)に「金光明経八巻、金光明最勝王経十巻」の読誦料があげられていることで想定され、国府寺が国分寺へ転用されたとも考えられるのである。鎮護国家を祈念する国分寺は、政治・文化の中心地である国府に近く占地するのが常識であろう。また国分寺は国司が検校・監督しており、国庁に近い方がより便利であったと思われる。この条件の満たされるのは深草廃寺である。もっとも奈良時代の瓦は出土しておらず、なお検討を要するが、十分考慮の対象にはなるであろう。



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