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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     二 越前の初期寺院
      大虫廃寺
 大虫廃寺は武生市街地の西域、鬼ケ岳(海抜五三二メートル)の東側扇状地大虫本町中江に所在し、小範囲ながら推定越前国分寺跡として福井県史跡に指定されている。当該地域は昭和四十一年の土地改良にともない発掘調査が実施され、一辺一二メートルの玉石乱積み基壇が確認された。この上には長径一・九メートル、短径一・三メートル、高さ〇・九メートルの礎石があり、石の上面中央には直径一五センチメートルの穴をもつ(写真131)。このことによって塔跡基壇と認定された。その後、昭和六十三年の第二次調査では、塔跡北方一〇〇メートルの地点で二面庇堀立柱建物跡の一部が検出され、同じく同年の第三次調査では塔跡北東部で掘立柱建物跡が検出されている(武生市教委『大虫廃寺・野々宮廃寺』)。しかし、これらはかならずしも寺院にかかわる遺構とは報告されておらず、寺域のひろがりを示すものではない。だが、布目瓦の散布は遺跡の西側七、八〇メートルの地点でも確認され、ある範囲を占有した寺院跡との想定はなりたつ。
写真131 大虫廃寺の塔跡

写真131 大虫廃寺の塔跡

 出土遺物は縄文土器から中世にまで及んでおり、この地区の歴史の重みを感じさせるが、廃寺関係では軒丸瓦・軒平瓦と多数の平瓦片がある(図111)。ここでは三点の軒丸瓦のみをあげたが、水野和雄・久保智康の分類では三型式六分類となっており、平瓦にいたっては一四種類と複雑な形態をみせる。図111―1は素弁八葉蓮華文で、水野和雄は「素弁八葉蓮華文軒丸瓦であるが、花弁は隆起した線で表現されており、花弁中央にも稜線を通すという特長をもっており、高句麗様式あるいは細弁型式に近い様相を呈する」と述べている(『北陸の古代寺院』)。図111―2は図111―1を彫り直した同笵との見解を示しており、図111―3は同様の形態を見せながら中房は一+五の蓮子を配している。これらの軒丸瓦をみる限り白鳳期の創建は動かず、七世紀後半〜八世紀代の存続は確かであろう。
図111 大虫廃寺出土瓦の拓影

図111 大虫廃寺出土瓦の拓影
  



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