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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     二 越前の初期寺院
      野々宮廃寺
 野々宮廃寺は武生市街地の東約五・五キロメートルの五分市「的場」に所在する。この地域は味真野扇状台地の微高地にあって地理的条件の良好なところで、継体天皇仮宮の伝承や『万葉集』に地名が残る歴史的由緒の多い場所でもある。
 遺跡は小丸城域(県指定史跡)を含む広大な範囲と推定されているが、昭和三十四年から四か年におよぶ発掘調査では、遺物の発見はあったものの、伽藍を確認することはできなかったという。また、平成三年の調査でも版築遺構は検出されたが、建造物の遺構は発見されなかったらしい。
 礎石も塔心礎と断定できるものは存在しない。ちなみに小丸城に残る穴の石は礎石とは考えられず、神社の石鳥居の基礎石との見方もできる。
 しかし、出土遺物に軒丸瓦二型式、軒平瓦・丸瓦・平瓦・仏などがあり(『北陸の古代寺院』)、寺院の存在は疑いのないところで、昭和五十一年には県指定史跡となった。  出土した軒丸瓦のうち、ここでは形態の明らかな第U型式のみを挙げる。この瓦は複弁八葉蓮華文軒丸瓦で、中房内には一+八+一〇の蓮子を置く。さらに外縁の内傾面には面違鋸歯文を配しており、川原寺様式をそのまま踏襲したものである。今一つ注目されるのは、特殊な叩き目のある平瓦であろう。これは図109右にみられるとおり、三重菱形と放射線を組み合わせたもので、水野和雄の指摘によれば福岡県築上郡新吉富村垂水廃寺と同一手法という(前掲書)。もちろん、偶然ではなく、九州との文化交流も強く感じられるのである。合わせて仏片も出土しており、華麗な寺院の荘厳が想定されよう。きわめて中央的な様相を見せるこの廃寺の実態は、現在明らかでないが、広範囲な発掘調査をすれば予想外に大規模な遺構が検出されるのではなかろうか。
図109 野々宮廃寺出土瓦の拓影

図109 野々宮廃寺出土瓦の拓影
(左:軒丸瓦、右:特殊な叩き目のある平瓦)

 創建年代は出土瓦などから白鳳期中葉に求められ、奈良期以前の越前と中央とのかかわりを示すものとして注目される。檀越についても確定はできないが、斎藤優は、『続日本後紀』承和六年(八三九)四月七日条にみえる「越前国人造兵司正正六位上味真公助麻呂」の存在や、隣接して「味間」「東味間」「西味間」の地名も残るところから、味間公一族とのかかわりを示唆している。



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