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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     二 越前の初期寺院
      丹生郡の寺院跡
 福井県内で廃寺跡および瓦出土地・窯跡など関連遺跡の最も多いのが丹生郡域(のちの今立郡を含む)である。良好な条里地割の遺存とともに一一遺跡(うち四廃寺)が確認されており、この地域が古代越前国の中心であったと推測されよう。  廃寺は今立町服間区水間谷の通称仏谷に所在する室谷廃寺、武生市五分市「的場」の野々宮廃寺、同深草一丁目の深草廃寺、同大虫本町「中江」の大虫廃寺の四か寺が認められる。さらに、清水町にある明寺山遺跡では「寺」と書かれた墨書土器が検出されており(写真130)、平安期にもこの地域に寺院の存在した可能性が考えられている(清水町教委『明寺山遺跡』)。同じく清水町域には越前国分寺の寺田が所在するなど、多くの事例が遺跡・文献に求められる。
写真130 墨書土器「寺」

写真130 墨書土器「寺」

ここでは武生市域内の三か寺を取り上げるが、その前に特異なあり方を示す室谷廃寺について若干述べておきたい。当廃寺は狭い谷間に位置しており、通常みられる古代寺院の立地条件とはまったく様相を異にしている。山一つ越えた西側の中山・山室など、月尾川北辺にかなりの平野が形成されているにもかかわらず、まったく不思議なことである。出土遺物から奈良時代後期〜平安初期と推定されているが、はたして塔・金堂・講堂などの伽藍をもったかどうか不明である。ただし心礎石が残されており、塔の存在は疑うべきもなかろう。
 この地域は奈良時代の服部郷に比定されているが(第四章第一節)、西庄境・領家などの中世的な地名も残されている。室谷廃寺を造営した氏族集団は郡司クラスの大族ではなく、郷長クラスの人物と考えられるところから、明寺山遺跡も含めて、古代寺院の造営にあたった階層とその背景を再検討しなければならないであろう。ちなみに、この谷を出た高岡集落に所在する朽飯八幡神社境内には、七基の後期古墳があって六世紀後半代にかなり有力な集団のいたことを証明している(『資料編』一三)。
  



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