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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     二 越前の初期寺院
      篠尾廃寺
 篠尾廃寺は福井市篠尾字塔垣内に所在し、緩傾斜する福井平野の最高所に位置する。ここからは広大な平野が一望でき、古代寺院建立地として最適の場所といえる。加えて背後の吉野岳(海抜五二三メートル)山麓一帯には県内最大の群集墳を形成する酒生古墳群(三三五基)があって、造寺以前からこの地域が発展していたことをうかがうことができよう(写真88)。 
 現在水田化されているこの地域のなかに一アールほどの畑地があり、そのほぼ中央に長径二・六メートル、短径二メートル、高さ一・二メートルの塔心礎と思われる巨大な石が置かれている(写真128)。礎石の上面中央部には径八八センチメートル、深さ二二センチメートルの柱座が掘られており、さらに底部中心には径二・五センチメートル、深さ二・五センチメートルの舎利孔も穿たれている(『北陸の古代寺院』)。心礎石は本来あった場所から若干動いているとのことだが、周辺には礎石に使用されたと思われる石材がかなり散在し、この所がかつての塔跡と推定される。昭和四十六年の発掘調査では、基壇の一辺が一二・一メートルであったという。この数値は、国分寺を除く初期寺院に共通しており、高くても五重、もしくは三重の塔であったと思われる。このことは後述の若狭国分寺の塔跡数値で明らかにされており、十分参考になるであろう。塔跡は判明したものの、寺域および伽藍配置は不明である。しかし、かなりの範囲で現在も布目瓦の表採が可能であり、少なくとも一〇〇メートル範囲に散布している。
写真128 篠尾廃寺の礎石

写真128 篠尾廃寺の礎石

 出土遺物には軒丸・軒平瓦など瓦類と須恵器坏・高台付坏・盤・皿・円面硯などのほか、中世遺物も若干伴出している(前掲書)。軒丸瓦は五型式に分類されているが、写真129にみられる瓦は素弁八葉蓮華文で中房の小さい形態を示す。単純にいえばいわゆる百済様式と考えられるが、直径二〇センチメートルと大きく壮大な瓦当といえる。瓦の分類ではこの瓦が創建当初のものと考えられており、白鳳期の前葉に比定されている。後述の深草廃寺と同じく北陸最古との見方が強い。一方、図108の拓影は第四型式の軒丸瓦で、同じく素弁八葉蓮華文であるが、中房は前者に比して大きく、蓮子も一+八で構成され、奈良期後半の様相を見せる。さらにここには載せなかったが、第五型式として重圏文軒丸瓦も出土しており、伴出遺物も含めての判断から、七世紀中葉から九世紀初頭まで存続したとの見解が示されている(前掲書)。 
写真129 篠尾廃寺出土瓦

写真129 篠尾廃寺出土瓦

図108 篠尾廃寺出土瓦の拓影

図108 篠尾廃寺出土瓦の拓影

 ここで問題になるのは、この寺院とかかわった氏族が誰かということである。通常では東大寺領荘園にかかわった生江氏とされているが、これを否定する説もある。その理由として生江臣東人の例をとりあげ、同氏は奈良時代中期以降に勢力をもったためとしている。また、足羽臣一族とのかかわりもあったのではないかとの推論もされているが、かならずしもそうとはいえない。もし生江氏が新興勢力であったのなら、足羽氏の領分を侵したことになり、多くの問題が生じるはずである。しかし、そうした事例はみられず、やはり生江氏の本貫とみるべきであろう。
 生江氏の初見は奈良期の東大寺関係の文書史料ではなく、飛鳥京跡出土木簡にみえる「生江臣」で、これは天武天皇十年(六八一)ごろと推定されている(木七九)。したがって、早くから中央とのつながりがあって、東大寺にかかわったとみるべきであろう。天武天皇十年にはすでに篠尾廃寺は建っていたのである。  生江氏一族は「金弓」のあと「東人」の時代では天平神護二年九月十九日付「越前国足羽郡司解」(寺三四)に「大領正六位上生江臣東人」とあって「阿須波臣束麻呂」の「少領外従八位下」を大きく上回っており、生江氏が足羽郡最高の権威者であったことを示している。つけ加えるならば、当時、越前国のとしてみえる「佐味朝臣吉備万呂」と同等の官位であった。篠尾廃寺の巨大な礎石からみて、足羽郡内有数の寺院であったことがうかがわれ、この創建者は生江臣一族であるとの推測がなりたつであろう。
 注目されるのは、廃寺の東方約五〇〇メートルの丘陵裾に所在する窯跡である。ここでは奈良期後半の瓦が出土しており、前述の廃寺出土瓦の第四型式と同笵との確認がされている。このことから、白鳳期前半に創建された当廃寺が、奈良期後半に大改修されたことがうかがわれるのである。
   



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