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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
    一 初期寺院の成立と展開
      仏教伝来と寺院の造営
 わが国への仏教伝来は『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』などから欽明天皇戊午の年(五三八)に百済の聖明王が釈迦金銅仏と経典を献上したのに始まるとされており、さらに『日本書紀』では、同じく欽明天皇十三年に聖明王がはじめて日本へ仏教を伝えたとある。いわゆる仏教公伝である。両者ともに六世紀代の中ごろであり、わが国では古墳時代の後期にあたる。一支群で二、三百基もの群集墳がつくられた横穴式石室構築の最盛期であった。しかし、実際はもっと古い時代から私的に渡来した集団による仏教伝播が考えられ、当然のことながら、日本海沿岸の山陰・北陸はその影響をうけたと推測されよう。このことは、五世紀後半〜六世紀初頭ごろに比定される小浜市国分の国分古墳から、わが国では数例の出土例しか認められない「仏獣鏡」が発見されていることからもうかがわれる(『小浜市史』通史編上)。
 わが国で初めて本格的な伽藍を具備した寺院は周知のとおり飛鳥寺である。崇峻天皇元年(五八八)〜推古天皇十七年(六〇九)に蘇我馬子によって造営され、続いて聖徳太子による斑鳩寺(若草伽藍)や四天王寺の建立は、中央の有力氏族に大きな影響を与えたことであろう。
 これ以後、多くの寺院が造営され、畿内周辺だけではなく、広く地方へと波及し、三〇か国の範囲にまでおよんだという(森郁夫『日本の古代瓦』)。とくに、持統天皇六年(六九二)ごろには全国で五四五か寺にも達し(『扶桑略記』)、爆発的な造寺活動のあったことが知られている。
 寺院の造営には莫大な経費と高度な技術が必要であり、したがって、地方豪族の経済力を背景にして成立したことは当然のことであろう。国家の寺院造営奨励もあったが、裏面では寺院の優遇政策を逆手にとって、寺田の確保に利用しているのである(『続日本紀』和銅六年十月戊戌条・天平十八年三月戊辰条・同年五月庚辰条)。
 



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