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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    四 説話文学
      越前守為盛の物語
 『今昔物語集』二八―五には「越前守為盛付六衛府官人語」があるが、ほかの説話集には類話はみられない。『小右記』によれば、藤原為盛が越前守になったのは、万寿五年(一〇二八)のことであり、長元二年(一〇二九)在任中卒去しているから、その在任期間はきわめて短く、この説話のような事実があったかどうかは疑問である。
 「今ハ昔、藤原ノ為盛朝臣ト云フ人有ケリ。越前ノ守ニテ有ケル時ニ、諸衛ノ大粮米ヲ不成ザリケレバ、六衛府ノ官人・下部ニ致ルマデ、皆(発)リテ」抗議行動を起こし、越前守の家に押しかける。ところが、六月の暑い日に、炎天下で長時間待たせたうえ、塩辛い鯛の干物、塩引の鮭など塩分の強いものを食わせ、濁り酒を大量に飲ませた。酒の中には牽牛子(下剤)を濃く摺入れてあったので、みな激しい下痢をおこし、抗議どころではなくなって退散したとの話である。
 これは越前の風物や庶民生活に関係ある話ではない。しかし、六衛府などの下級官吏に支給される食米が、越前より納入された米によって賄われていたという事実がうかがわれる。しかも為盛の言い訳によれば、「彼ノ国ニ、去年旱魃シテ、露、徴得ル物无シ」とのことである。万寿五年ごろ、越前に旱魃があったかどうか、史料の徴すべきものがないが、やはり本説話の示唆するところには興味深いものがある。
 



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