正月の大饗の折に、ある五位の男が「哀レ、何カデ暑預粥ニ飽カム」と言ったのを聞いた利仁が、それならば飽かせ申し上げましょう、と声をかける。四、五日して、利仁は五位を入浴に誘い、ともに馬に乗って京を発つ。山科・関山・三井寺をすぎて、利仁は敦賀へ伴うのだと五位に明かす。三津浜(大津市北部)で利仁は狐を捕え、客人を具して下るゆえ、明日巳の時に高嶋あたりに迎えにくるよう、敦賀の家に告げることを命じた。その夜戌の刻に、この狐が利仁の北の方に憑いて、利仁の命を伝えた。高嶋には馬二匹を具して、利仁の郎従らが迎えに出ている。
夕暮に敦賀にある利仁の館に着いた五位は、賑やかに酒食のもてなしを受け、接待に舅の有仁も出てきた。夜更けて床に入ると、伽の女さえ供されることになる。夜中に大声で「此辺ノ下人承ハレ、明旦ノ卯時ニ、切口三寸・長サ五尺ノ暑預、各一筋ヅヽ持参レ」と叫ぶ声が聞こえた。『今昔物語集』によれば、「人呼ノ岳」という墓の上に立って叫んだとのことである。暁方になると、どんどん芋が運ばれてきて、軒の高さまで積み上げられた。やがて五石入りの釜が五つ六つ運びこまれ、味煎(甘葛の汁)を煮出した。若い男十余人が、芋をむきながら撫切にして釜の中へ入れていく。この仰山な光景を見ているうちに、五位は食欲を失ってしまい、一杯さえも食い切れないで「飽ニタリ」と言った。こうして五位はなお一か月ほど滞在し、数多の土産をもらって帰京したということである。
『今昔物語集』『宇治拾遺物語』とも、五位の幸運を讃える結末になっている。しかし、本説話の主題は、やはり敦賀の殷盛とそこに地盤を置く豪族の富裕さであろう。利仁が狐をも駆使する能力を備えていることもその反映といえよう。
以上、敦賀に関係ある三説話をとり上げてきたが、いずれも奈良・平安時代を通じての敦賀の繁栄、全国有数の港町としての地位を語っていると思われる。このことを確実な史料から立証することは困難であるが、それだけにこれらの説話のもつ意味は大きいと思われる。 |