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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    四 説話文学
      楢磐嶋の物語
 『日本霊異記』中二四にみえる楢磐嶋の物語はその最も古いものの一つである。それは奈良薬師寺の僧景戒の著書で、平安初期の弘仁年間の著作と考えられている。


写真124 『日本霊異記』(学63)
                (参照) 京都大学附属図書館所蔵『伴信友校蔵書』霊異記[pp.16-17]
                                                       [pp.18-19]

 磐嶋は、平城京左京六条五坊、大安寺の西の里の住人であった。聖武天皇の御世に、大安寺の修多羅分の銭三〇貫を借りて、越前の都魯我の津に行き交易した。購入した品物を船に乗せて持って帰る途中、突然発病した。そこで船を留め、単身馬に乗って帰ろうと琵琶湖の西岸を南下してくると、近江高嶋郡の辛前のあたりで、追いかけてくる三人に気づいた。山代(山背)の宇治橋で追いつかれ、閻羅王の使であることがわかった。磐嶋は牛一頭を賄として死を免れ、九〇余歳の長命を保ったという。
 この説話からは多くのことが読みとれるが、なかでも重要なことは、越前敦賀が当時有数の交易の中心だったことであろう。磐嶋が三〇貫を元手として何を購入したかは明らかではないが、おそらくは海外から流入した品物もあったのではなかろうか。当時の敦賀の殷盛は具体的な描写がなくても明らかである。そうした物資を運ぶためには、主として琵琶湖の水運によったらしいが、西近江路をとる場合もあったことがこの説話からうかがわれる。
 また『日本霊異記』下一四には、越前国加賀郡の浮浪人の長の話が載っている。「浮浪人を探りて、雑徭に駈い使い、調庸を徴り乞う」と記されている。この物語にはさらに神護景雲三年(七六九)という年次まで記されているが、これらの記述から奈良時代末期、越前に浮浪人を探索し浮遊労働力を組織しながら成長したタイプの富豪浪人の出現を認める説もある。
  



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