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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    三 漢詩―酬唱文学―
      王孝廉の死
 弘仁五年九月、出雲に到着した渤海使王孝廉の一行は、入京を許され盛んな歓待を受けた。王孝廉は著名な文人として聞こえ、また時の嵯峨天皇が文雅を好み、朝廷内に独特のサロンが形成されていた時代だったからである。弘仁六年正月七日、内宴に列した王孝廉は、
  海国来朝、遠き方よりし、百年一酔天裳に謁ゆ。
  日宮座外、何の見る攸ぞ。五色の雲飛び万歳に光る。
の詩を作った。弘仁六年五月、王孝廉の一行は帰路についたが(出発地は出雲らしい)、海中で逆風に遭い、越前に漂着した。船は破損して用に堪えないので、越前国に大船を択んで渤海使を乗せることが命じられた。しかし王孝廉は同年六月十四日、病のため越前で没した(以上の経過は『日本後紀』)。
 ところで、坂上今雄(今継の誤記ともいう)は渤海使の判官高英善と録事釈仁貞に詩を寄せている。
  大海の途渉ること難く、孤舟未だ廻すことを得ず。
  如かじ関隴の雁、春去り復秋来るには。
これによれば、同年秋に渤海使一行はなお越前で船待ちをしていたようである。その間に王孝廉の後を追い、判官王昇基、録事釈仁貞もまた世を去った。当時越前には疫病が流行していたらしい。渤海使一行が帰路についたのは弘仁七年五月であった(『類聚国史』)。以上の漢詩は『文華秀麗集』に収められている。



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