目次へ  前ページへ  次ページへ


 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    三 漢詩―酬唱文学―
      渤海との交渉
 若狭・越前国は渤海の使節の発着点として、かなり重要な地位を占めていた。それゆえ渤海の使人との交歓の場において、当地の官人によって漢詩が詠まれるという事例は少なくはなかった。貞観元年(八五九)三月、越前権少掾嶋田忠臣を加賀権掾に起用して、加賀に安置された渤海使人と漢詩を唱和させたことは有名な話である。このとき渤海の副使周元伯は能文の聞こえがあり、嶋田忠臣もまた詩文に名があったゆえ、こうした交歓が実現したのだった。
 もとより渤海と越前との関係はこのときに始まるのではない。たとえば弘仁元年(八一〇)五月、越前から帰国しようとする渤海の使節団のうち、「首領」である高多仏が脱出して越前に留まるという事件が起きている。このときも越前の官人のなかに、渤海語を解するか、もしくは漢字による筆談の可能であった人物がいたに違いない。意志の疎通のまったく不可能な状態で、使節団からの脱走がありえたとは考えられないからである。この高多仏はその後越中に移され、渤海語の教授に従事している(編三四五)。
 



目次へ  前ページへ  次ページへ