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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    一 文字の普及
      官衙的な遺跡と墨書土器
 高森遺跡は武生市高森町を中心とした律令期の遺跡であって、丹生郡衙の所在地であろうと考えられている。ここからは三〇点近い墨書土器の出土をみているが、その大部分は「新」の一字を記すのみで、あるいは「新郡衙」の略称であろうかとする説もある。このほか、高森遺跡の付近に八世紀後半のものと推定されている丹生郷遺跡がある。「丹生郷長」「五月郷」などの墨書土器が発見され、ここを丹生郷の郷衙跡とみる見解もある。
 さらに注目すべき多量の墨書土器が出土した武生市村国遺跡は、日野川の東岸、村国山の北麓にある。弥生・古墳・奈良・平安時代にわたる複合遺跡であるが、五世紀から七世紀前半にかけての遺物・遺構はまったく検出されていない。ところが、溝・井戸・湿地などより大量の墨書土器が発見された。その数は百数十点におよび、県内の墨書土器出土遺跡のなかでも最高の個数である。なかでも重要なのは、「佐味」(写真121)と記した完形に近い坏が出土していることであろう。
写真121 墨書土器「佐味」

写真121 墨書土器「佐味」

 「佐味」は奈良時代の丹生郡の豪族のウジ名であり、なかでも佐味君浪麻呂は、天平三年(七三一)郡司少領、天平五年に郡司大領として文書に名を留めている(公二・三)。そのほか佐味公入麻呂・佐味磯成・佐味磯守・佐味大長・佐味敷浪・佐味玉敷女などの名が天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)などにみえ、奈良時代における佐味氏の繁栄を語っている。
 「佐味」のほか、「佐印」「佐□」「佐家」「佐」などの土器も数多くみられ、佐味氏の館がこの近辺にあったことを推定することもできよう。佐印のほか、「大印」「貞印」など「印」の字をつけた土器が多数出土しているのも本遺跡の特徴の一つである。このほか、「徳成女」「富吉女」など同一人の筆によると考えられるものも多数出土している。さらにこの遺跡からは「済/舟津」と判読できる土器が発見されている。それは、本遺跡が日野川に面し、港・舟着場としての機能も果たしていた重要な証左といえるであろう。
 村国遺跡からはこうした多数の墨書土器に加えて石帯の未成品も出土している。これらのことを考え合わせれば、おそらくはたんなる集落遺跡ではなく、郡衙の所在地であったのではないかとも考えられる。丹生郡衙の所在地としてはすでに高森遺跡が有力となっているが、しかしこれは互いに矛盾することではない。というのも、弘仁十四年(八一四)に丹生郡より今立郡が分立するに際して、丹生郡衙も新しく設置された可能性が大きいからである。
 田名遺跡は三方町田名に所在し、若狭地方のなかでは最も多くの墨書土器を出土している遺跡である。この遺跡は古路谷前地区と村山地区に分かれているが、奈良・平安時代の遺構は後者の方である。墨書土器としては「厨□」「西家」「乙家」「大家□□□」「大膳」「吉家」「東」「山本」など八点が出土している。このほかにも線刻土器として「米□」とヘラ工具で線刻されたもの一点が出ている。下の不明文字は「瓮」であるようにもみえる。
 さらに田名遺跡で重要なのは、木簡が三点出土していることである。そのうちの一つは、若狭国三方郡能登里の中臣広足ほか四名が、各一斗ずつ合計五斗の塩もしくは米を納めるという内容である(第四章第二節)。「国・郡・里」の順に記載されているところから、大宝元年(七〇一)から霊亀元年(七一五)までの期間とみられる。こうした荷札の木簡が地方において記載された証拠となるべきものである。このことから田名遺跡は三方郡衙関連施設の所在地であった可能性も考えられ、また出土例の少ない円面硯の発見されている事実も、この推測を助けるものであろう。「厨□」「大膳」「米□」などは、給食施設に関係したものと考えられる。
 田名遺跡に近い江跨遺跡からは墨書土器二点が出土し、うち一点は「桜売」と判読された。また西約一キロメートルの角谷遺跡からは、墨書土器一点と木簡一点が出土し、前者は判読しえなかったが、後者は「天平四年十月廿八日」と記されるものである。
 また近年、田名遺跡の北東約一・五キロメートルのところにある小字「城縄手」からは「郡厨」「郡」「三方」「服」などと記す墨書土器が出土した。ここからは多数の須恵器の坏・坏蓋や転用硯などもみつかっている。近くには式内社御方神社の旧社地であったという「郡神」の小字名もあり、三方郡衙跡の有力な候補地とみることができよう(第四章第二節、図62)。
  



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