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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    一 文字の普及
      土器に書かれた地名と人名など
 上河北遺跡は福井市南部の上河北町にあり、弥生時代の方形周溝墓が発見され、あわせて奈良時代末から平安時代初めにかけての複合遺跡である。木製の壷鐙や木製農器具多数を出土している。次の上莇生田遺跡とひと続きの遺跡とみて上莇生田遺跡として一括されることが多いが、ここでは両者の相違をみるためにあえて区別することにした。
 上河北遺跡からは九四点の墨書土器が出土しているが、そのなかで最も注目されるものは「田」(『資料編』一の口絵)と記すものである。『日本書紀』垂仁天皇15年条の薊瓊入媛の「薊」を「莇」と書いている写本のあるところから考えて「アザミタ」と読むべきであり、現在このあたりを「莇生田」というが、元来は「莇田」であったとみてよいであろう。「道麻呂」(『資料編』一の口絵)「広君」「麻呂」「宿奈万」「足女」などは、人名もしくは人名の一部であろう。こうした人名がなぜ須恵器の蓋などに書き留められたのであろうか。この器がその人の所有であったのか、それともその人が奉納したものであったのかは不明であるが、全国的傾向を参照すれば前者の可能性が大きいようである(原秀三郎「土器に書かれた文字」『日本の古代』一四)。
 上莇生田遺跡はやはり八世紀末より九世紀初めにかけての遺跡と考えられており、二七点の墨書土器と和同開珎一点などが出土している。判読可能のもの二一点中、ここでも「家麻呂」「古人」などと、明らかに人名を記したものがある。とくに「古人」(写真119)は行書の達筆で、のびのびと右へ払った「人」の第二画にはおおらかな魅力が感じられる。このほか、「中家」「北家」と記すものがあり、この類では、「墨書土器一覧表」(『資料編』一)に含まれていないが、おそらくは「丈家」と読むものもあり、「丈部」がこのあたりに関与していた資料ともみられるものである。なお、この遺跡では「三」「九」「卅」など数字を記した土器の多いことも特徴として指摘できる。
写真119 墨書土器「古人」

写真119 墨書土器「古人」
 下莇生田遺跡は先述の二遺跡とほぼひと続きの遺跡で、やはり八世紀末から九世紀初めごろと考えられている。八点の墨書土器が出土しているが、ほかに延暦十五年(七九六)鋳造の隆平永宝もあり、推定年代の妥当さを語っている。判読できる文字としては「中」が最も多く、四点を数える。この「中」は右肩が鋭角をなす特徴をもっている。
 和田防町遺跡は福井市和田中町の遺跡であるが、八世紀後半から九世紀初めの溝からは一三点、九世紀前半の溝からは四二点の墨書土器が出土した。前者からは馬骨・馬歯・塗彩土師器が伴出し、何らかの官衙との関係を考えさせる。墨書のうち「参役女」(写真120)の文字の正確な意味は不明であるが、重要な意義を含んでいるのかもしれない。このほか、「麻呂」「西」「人」「井」「大」「足原」「古人」などと記した土器も出土している。後者からは、製塩土器、土馬、灰釉・緑釉土器などが伴出している。また、同一土器に方向を異にして「目麻家」「黒万呂」と記すものもあるが、目麻家に属する黒万呂の意味であろうか。
写真120 墨書土器「参役女」

写真120 墨書土器「参役女」
 大森鐘島遺跡は清水町大森の村落遺跡で、約三〇点の墨書土器が出土している。九世紀前半と推定されている。この遺跡から出土した墨書土器には、「真成」(『資料編』一の口絵)と記されたものが最も多く、それはおそらく人名であろう。ほかに「万」「東」「南」「平」「成」など一字のみの土器が多い。
 明寺山遺跡も清水町大森の遺跡で、九世紀前半ごろの一種の祭祀遺跡とみられている。「寺」(写真130)と記した土器が三点出土しているところをみれば、何らかの寺院と関係があったのであろうか。
写真130墨書土器「寺」

写真130墨書土器「寺」
   



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