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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      院政期初頭の若狭と「唐人
 一方、若狭国への来航も多かったようである。『後二条師通記』寛治三年(一〇八九)十月十八日条によれば、若狭国の「大宋国商」が害せられたことについて審議されている。また、『永昌記』天仁三年(一一一〇、七月に改元して天永元年)六月十一日条には、若狭国の唐人楊誦、解状を進む。其の中、多く越前国司の雑怠を注す。「若し裁定無くんば、近く王城に参り、鴨の河原の狗のために、骸骨を屠られん」と云々。異客の解、其の詞、怪しむべし。仍て記すのみ。とある(記一二二)。若狭国が都に進めた唐人楊誦の解状によれば、越前国司(当時の越前守は藤原仲実で、権守は藤原為房である)の「雑怠」(怠慢)を訴えており、もし、越前国司の怠慢を裁定してくれなければ、平安京に参り、鴨川(賀茂川)の河原の狗によって骸骨をくわれてしまう、と意味不明ながら不気味なことをいっている。
 さらに『中右記』天永二年十一月十九日条には、若狭国司が報告してきた宋人の林俊の来航について、諸卿が陣定で定め申して廻却することにした、と記している。また、『長秋記』同年九月四日条には、財産を隠して参着した「唐人」について定め申したとあるが、十一月に若狭国が報告した宋人と関連するのであろうか。  以上のように、若狭国にも来航件数が寛治三年・天永元年・天永二年・元永二年ごろなど四例ほどみえる。そのうち二件は明らかに越前国とも関係があり、平安京も比較的近いので貴族らは高い関心を示しているのである。



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