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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      院政期初頭の越前と「唐人」
  石山寺所蔵の『金剛頂瑜伽経十八会指帰』奥書(文一六〇)によると、康和二年(一一〇〇)の秋、ある人物(僧侶か)が白山に参詣の途中、敦賀津において「唐人」黄昭を雇ってこの経巻一帖を書写させたことが知られる。経巻の書写にはある程度時間がかかることから、敦賀津に宋人が滞在していたことが推定されて大変興味深い。このほかにも、敦賀津には「唐人」(宋人)が頻繁に来航し、長期間滞在する者もおり、交易も行われていたことが推測される史料がある。
 『後二条師通記』応徳三年十一月一日条には「越前国の唐人の事、国解に申す」(記七三)とあり、さらに「予(藤原師通)定文、数年の間、一言定め申す事三事也。代初め唐人越前に寄り、大宰府に下す」(記七四参考)とある(『同』別記寛治五年八月六日条)。「代初め」とは堀河天皇が即位した応徳三年十一月以降のことであるので、二つの記事は関連し、応徳三年十一月ごろに越前国に来航した「唐人」は、越前国が中央政府に報告したあと、陣定で審議の結果、大宰府に廻船されていることがわかる。
 また、『為房卿記』寛治元年七月二十五日条には「陣定有り。越前の唐人の事、按察大納言(藤原実季)これを承る」(記七四)とあり、『本朝世紀』七月某日(二十五日か)条には「越前の唐人の事を定め申さる」(編七一二)とある。さらに、七月二十七日条に「仰せて云く、大宰府に非ずして唐人を安置すべきや否やの事、尋ね申すべしてえり」とみえ、越前国に宋人が来航したことに対して、大宰府以外の地で安置してよいかどうかが問題となっている。八月十六日条には「早旦、召しに依り殿下に参る。越前の唐人の廻却宣旨(中略)等」とあるので、結局は「廻却宣旨」が出されていることがわかる。『本朝世紀』十二月七日条に「越前国の唐人の事、并に国々条の事を定めらる」(編七一三)とあり、「諸卿、越前国の唐人の事を定め申す」(『百練抄』同日条)とあるので、少なくとも寛治元年の七月から十二月にかけて宋人が越前国に滞在していたことが知られる。
 このほか、『中右記』嘉承元年(一一〇六)八月二十八日条には、「越前国司、唐人の来航を言上す。人々申して云く、帰粮を給いて追却せらるべきか」(記一一四)とあるので、越前国が「唐人」来航の解状を京進していることがわかる。翌二年二月二十一日の陣定では、「唐人」来航について定め申しているから(『中右記』)、これが八月に越前国が報告した「唐人」のことを意味すると考えられる。したがって、嘉承元年から二年にかけても越前国への宋人の来航がうかがわれる。さらに、『中右記』天永三年十一月二日条および十三日条には、越前国司が報告した「唐人」の来航について、帰粮を支給し廻却することを諸卿が定め申したとある。
 以上のように、越前国への「唐人」の来航は、応徳三年・寛治元年・寛治五年・康和二年・嘉承元年・天永三年・元永二年ごろの少なくとも七例は知られ、敦賀津とは記されていないものの、敦賀津へも来航した可能性は高い。



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