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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      藤原顕頼と若狭・越前国の「唐人」
 この為房の孫にあたる顕頼も院の近臣であり、宋人と交易をしたらしいことが知られる人物である。『唐大和上東征伝』(東寺観智院旧蔵本)第二十八紙の紙背文書には、
  今月廿一日の御札、同日申時、到来。仰せの旨、謹んで以って承り候い了んぬ。抑も
  尋ね□〔仰カ〕せ遣さるる所の白臈、敦賀の唐人の許へ尋ね遣わして、此れより案内を
  申さしむべく候なり。今相待ちて□坐して京の御返事は申し御せしむべきなり。国(若狭
  カ)においては、此の一両年、唐人は更に着岸仕り□〔候カ〕わざるものなり。是れ他事
  に非ず、国司の御苛法、無□〔期カ〕の由、申さしめば、罷り留まらず候なり。返すがえ
  す、□〔使カ〕に付して、進上せしめざるの条、尤も遺恨に思し給い候わば、今明の間、
  左右申さしむべく候。(後略)
とある(写真117)。また、前欠ながらこれに続くと思われる第十九紙(同筆か)には、
写真117 『唐大和上東征伝』紙背文書(文164)

写真117 『唐大和上東征伝』紙背文書(文164)

  白臈三十筋(斤)、尋ねに随いて得候。怱に上らしめ候なり。乏少に候えば、重ねて又別
  の唐□〔人カ〕に尋ね遣し候の所、候わざるの由、申し送る所なり。仍て候ままに之を進上
  す。乏少の甚しきに、且つは恐れ申し候い、且つは又恥ずる所にして、且つは□候なり。(
  後略)
とある(文一六四)。これらの文書は年次不明であるが、一連の紙背文書のうち、第三十二紙には元永二年(一一一九)十二月二十五日付「散位藤原宗遠菓子進上状」があり、また、第三十紙・第二十九紙には丹後国の目代宛の某年二月十三日付で(伊岐)致遠の書状があることなどから、紙背文書はすべて元永二年十二月から翌保安元年(一一二〇)六月の間に収まり、丹後の目代に保管されていた文書群であると推定されている(五味文彦「紙背文書の方法」『中世をひろげる』)。
 元永二年ごろの丹後守は藤原顕頼で、『中右記』元永元年正月十九日条および『公卿補任』天承元年(一一三一)条によれば、元永元年正月十八日に丹後守に任じられ、保安元年十一月二十九日に任を去っていることが知られる。顕頼の父は顕隆で、祖父は先述した院の近臣で知られる勧修寺流の為房である。父顕隆は元永二年ごろ、鳥羽天皇の蔵人頭で御厨子所別当を兼ねていた(『中右記』元永二年六月八日条)。さらに顕隆は、永久五年(一一一七)正月より保安元年六月ごろまでは越前権守であった(永長元年正月から承徳元年正月までは若狭守であった)。
 書状の内容および紙背文書全体から推察されることは、次のようである。丹後国の目代から白臈(錫)の入手を依頼された若狭国の人と思われる人物が、「敦賀唐人」のもとに尋ね遣わしたところ、この一、二年、若狭国には「唐人」がまったく来航しないのは、国司の苛法が暇なく続くせいだと答えている。結局、三〇斤の白臈を求めたが得た量があまりにも少ないため、別の「唐人」にもあたったが、これ以上得られなかったので、わずかであるが進上するという内容である(五味前掲論文、『小浜市史』通史編上)。なお、目代に白臈を求めるように命じたのは、当然、丹後国守藤原顕頼である。先述の寛治五年の為房も院の近臣であり、院政期初頭、院の近臣が敦賀津で活発に宋人と交易をしていたことがわかる貴重な史料である。
 



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