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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      宋商孫忠・黄逢の敦賀津への来航
 林養・俊政の来航から二〇年後の承暦四年(一〇八〇)、宋人孫忠(史料によっては孫吉・孫吉忠ともみえるが、同一人物と思われるので以下孫忠とする)が再び敦賀津に来航し、これ以後四〇年余り宋人が頻繁に若狭・越前国に来航するようになる。
 承暦四年閏八月二十六日に陣定が行われたが、それは、「宋国使」である黄逢が牒状を携えて大宰府に着岸したものの、まもなく小船に乗り換えて敦賀に来航して「明州牒」を越前国に進め、その案(写し)が京進されたことに関してであった(『水左記』)。この黄逢は宋商孫忠の部下(水手か)であり、同じ二十六日に越前国は孫忠の「存問記」を京進しているので(『帥記』)、孫忠自身も越前に来航していることがわかる。牒状には「大宋国明州牒す、日本国大宰府」とあったらしく(尊経閣文庫所蔵『異国牒状記』)、またこれより五か月余り前のことだが、筑紫守や肥後守が派遣され、孫忠が存問を受けていることから(『帥記』四月二十一日条)、九州地方に来航したことが知られ、対応が遅いなどの理由からか、黄逢らとともに博多津から平安京に近い敦賀津に向かったものと思われる。
 閏八月三十日に黄逢の身柄は大宰府に追遣し、「明州牒」は越前国から都に進めるべき旨の宣旨が下る(『水左記』)。九月十日に越前国より「明州牒」が都に届いて天皇に奏聞された。牒の内容は、前使の孫忠の帰国が遅いことについてであった(『水左記』、『扶桑略記』、『帥記』)。十九日には陣定が行われ、「明州牒」および「唐人」孫忠らの「愁状」について定め申している(『水左記』・『帥記』)。なお、十月末以前に越前国は、良満法師が孫忠らを「濫行」したことについて訴えた、という記事がみえる(『水左記』承暦四年十月三十日条)。これ以後、越前国に関して孫忠ら宋人の記事がみえなくなるので、大宰府へ向かうようにとの宣旨に従ったものと思われ、結局は大宰府より明州に返牒を送った(『異国牒状記』)。当時の外交方針としては、基本的には大宰府が外交の窓口であったため、このような措置がとられたものと思われる。
 ところで孫忠の初見は、成尋の弟子が宋の皇帝から贈られた金泥法華経などを携えて、孫忠の船で明州を出航したという記事である(『参天台五台山記』延久五年六月十二日条)。そののち、『宋史』によれば、元豊元年(承暦二年)に日本僧仲回が答信物と「大宰府牒」を携え、「海商」孫忠の船で明州に到着したことを伝えた記事がある。仲回は日本に来ていた孫忠の船に便乗したのであろう。したがって、先に示した同四年の来航は三回目である。さらに、永保二年(一〇八二)「孫忠」の帰国に際して返牒を遣わしたとあるから(『百練抄』永保二年十一月二十一日条)、このころ帰国したらしい。また、応徳二年(一〇八五)十月二十九日に孫忠の来航について議されており(『朝野群載』)、少なくとも四回は来航していることになる(原美和子「成尋の入宋と宋商人」『古代文化』四四―一)。このように孫忠らは来日回数も多く、大宰府での対応の遅さも知っていたことから、都に近い越前の敦賀津に入港したと思われる。
 



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