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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      宋商林養・俊政の敦賀津への来航
 朱仁聡らの来航後、しばらく若狭・越前国への「唐人」の来航はみえず、それから約六〇年後の摂関期後半にあたる康平三年に宋人の来航記事がみえる。
 『扶桑略記』の同年七月条や『百練抄』八月七日条によれば、これより以前に越前国敦賀津に来航した「大宋商客」林養・俊政らについて(『百練抄』は林表・俊改とする)、廻却の旨が越前国に命じられていたところ、林養らの奏上によって、この日に陣定が開かれて審議が行われ、食糧を支給し廻却すべきことが定め申されている。しかし、後日、先に述べた長徳年間の朱仁聡の例に従って現地に安置されることになった。
写真115 敦賀港遠望

写真115 敦賀港遠望

 林養に関しては、『参天台五台山記』延久四年(一〇七二)三月二十二日条に、大雲寺の僧成尋が入宋した時に乗った宋船の乗組員のうち、「船頭」の林皐(林廿郎)は「但馬の唐人林養の子なり」とみえる。これは一二年後のことであり、この史料にみえる林皐の父「但馬の唐人林養」が、康平三年に敦賀津に来航した林養と同一人物である可能性が高い。もしそうだとすれば、林養は但馬国を拠点に日本海沿岸を北陸方面から山陰、対馬、さらに東シナ海を中心に交易した宋商として注目されよう。そしておそらく敦賀津では、林養ら宋人と地元の人や都からの王臣家の使が交易を行っていたと推測される。
  



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