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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      紫式部の父と宋人との詩の唱和
 さて、朱仁聡らが若狭・越前国に滞在していた長徳二年正月の除目で、越前守に任じられたのが紫式部の父である藤原為時である(第四節)。かれが越前守に任じられたのは、一条天皇自身が学問のある者に「高麗人」と詩を作り交わらせてみたいと思っていたことも背景にあったといわれており、為時は越前国に赴いて「唐人」と次のような詩文を贈答した。
  国を去ること三年、孤館の月、帰程の万里、片帆の風。
   〔国を去って三年、あなたは一人、鴻臚館で月を眺めて故国を思っておられるのであ
    ろう。帰途は万里の道のりであるが、片寄せた帆でも順風が吹けば帰国することも
    できましょう〕
  画鼓雷、奔(はしり)して、天雨降らず、彩旗雲、そびえて、地風をなす。
   〔色どりを施した鼓が鳴るように雷が鳴り、稲妻が走るが、まだ雨は降ってこない。美
    しい旗のような雲がわき上がり、地には風が吹いてきた〕
 『今鏡』にみえるこの話は事実のようで、「覲謁の後、詩を以って大宋客の羌世昌に贈る。藤為時」と題した七言律詩をのこしており(『本朝麗藻』下―贈答)、為時は実際に宋人の羌世昌と詩を唱和していることが知られる。これに関連して「咸平五年、建州の海賈、周世昌、風に遭いて飄りて日本に至る。凡そ七年にして帰るを得る。其の国の人、籐木吉、上に至る。皆之を召し見る。世昌、其の国の人をもって、詩を唱和する」との記載がある(『宋史』四九一―外国七)。年次が五年ほどあわないことや宋人の姓に「周」と「羌」の違いがあるという問題はあるが、漢詩を唱和したことや名前の「世昌」は同じであることから、『本朝麗藻』と『宋史』との記事は同じ内容を伝えていると考える説が有力である(川口久雄『三訂 平安朝日本漢文学史の研究』中、海野泰男『今鏡全釈』下など)。越前国司は、来留していた福建省の貿易商人と文雅の交流もしていたのである。
 一方、長徳二年の晩秋、父に従って任国越前に来た紫式部も初冬には国府(武生市)に入ったようであり、この宋人の一行のことは知っていたらしい(『紫式部集』)。紫式部が、実際に父が「唐人」と詩を唱和した様子を聞いていたことは当然想像できる。この体験が彼女の『源氏物語』の創作にどのような影響を与えていたのか否か、今後の考察課題の一つになるのではなかろうか。
 このように、摂関期の宗教界を代表するとされる源信と、越前国司であった紫式部の父が、宋人と会ったことは、摂関期の越前における「唐人」との交流の例として留意しておきたい。
 



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