目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 若越中世社会の形成
   第四節 北陸道の水陸交通
     三 武者往来の道
      白山神輿上洛
 律令制下の地方行政に参画した伝統的地方豪族たちは、平安時代になって徐々にその勢力を失い、土着国司の系譜を引く武士がそれにとって代わるようになった。一方、寺社は多くの荘園を管理することによって、土地・人民をめぐって朝廷やほかの領主との紛争を起こすようになった。とくに、寺社は僧兵・神人とよばれる武力集団を組織して時代を乗り切ろうとしたのである。また、これら地方の各寺社は中央の寺社との縦のつながりを強くし、全国的な組織のもとに団結する動きもみられるようになってくる。  白山をとりまく地域における白山信仰は、越前馬場(白山中宮=平泉寺)・加賀馬場(白山本宮)・美濃馬場(白山中宮=長滝寺)を拠点として盛んとなり、平安中期ごろからこの三馬場間での本家争いが激しくなる。やがて信仰上の権威と寺勢を保つため、平泉寺は応徳元年(一〇八四)に比叡山延暦寺の末寺となったのに続いて、加賀馬場の白山本宮(白山寺)は久安三年(一一四七)に延暦寺の別院の資格を得たのである。とくに、平安後期の加賀馬場は白山本宮を中心とする白山七社を中心に構成され、手取川河谷の中・上流域一帯を主な勢力範囲とし、白山寺の長吏や本宮の神主の統率のもとに、有力な農民を神人や衆徒としてかなりの武力をたくわえるようになっていたのである。  
後白河院と平清盛の手中に政権があった安元元年(一一七五)十二月、後白河院の側近で権力をふるっていた藤原師光の子師高が加賀守に任じられた。翌二年夏ごろ、師高の弟師経が兄の代官として加賀にやってきた。彼は父の権勢を背景に国衙権力の回復をねらい、国衙の東側に群在する白山中宮八院の一つである鵜川(石川県小松市)の涌泉寺に検注を試みたのである。国衙権力の回復をめざす師経側と国使の入寺に抵抗する寺僧側との主張が対立し、武力衝突を招く結果となった。結局、師経は涌泉寺に乱入して、僧坊のすべてを焼き払ってしまったのである。師経のやり方に憤慨した白山三社八院の大衆が師経の館を包囲したところ、すでに師経らは京に逃げ帰ったあとであった。そこで白山側は、師高・師経兄弟の処罰を実現しようと、本山延暦寺へ訴えたのであった。しかし、延暦寺からの返事は末寺のことだからと消極的であったので、翌年(安元三年)一月、佐羅宮(白山七社の一つ)の神輿を先頭に、甲冑に身を固めた白山側の衆徒たちが北陸道を上って延暦寺へ向かったのである。その時の様子を『源平盛衰記』はかなり詳しく述べている。
 二月五日に願成寺に着く。六日に仏が原、金劔宮、三日逗留する。十日に金劔宮出発、あわづ(粟津)に着く。十一日に須河社(江沼郡菅波?)、十二日に越前国細呂宜(木)山の麓、福竜寺森の御堂に入る。十三日に木田河のはた、十四日に小林の宮、十五日にかえるの堂、十六日に水津(敦賀市杉津)の浦、十七日に敦賀の津、金が崎の観音堂へ入る。三月十三日に神輿をかかげて敦賀津を出発、荒智の中山を越えて海津の浦に着く。十四日に客人の宮(日吉七社の一つ)の拝殿に入る。四月十三日に白山佐羅宮の神輿、日吉七社の神輿とともに比叡山から下洛する。
 参加した衆徒は「帰命頂礼、早松金劔両所権現、本地垂跡(迹)力を合わせ、思いを一にして、速かに師高・師経を召捕り給え」と口々に呪咀しながら都へ向かった。加賀から越前に入ると参集するものも多く、「御伴の人数九千余人、在々所々に充ち満ちたり」とあるように、相当の数になったものと思われる。また、敦賀に逗留した一月余の間、交渉や連絡などのために敦賀と比叡山、敦賀と加賀白山側との往復も盛んであったと考えられる。結局は、神輿を振りかざした巨大な衆徒集団の強訴に屈した中央政府は、師高・師経兄弟を解任し、尾張・備後へ流罪とせざるをえなかった。こうして白山側の執拗な訴えは、延暦寺などを巻き込んでかなえられたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ