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 第六章 若越中世社会の形成
   第四節 北陸道の水陸交通
     二 国司の通った道
      藤原為房の通った道
 紫式部が越前に来てから約一〇〇年後の寛治五年(一〇九一)七月、藤原為房が任国加賀から船で京へ戻る様子が『為房卿記』に記されている(記七八・七九)。
 十九日に任国を出発して二十日の朝、淡津の泊を出て日本海を海岸沿いに南下し、半日で越前丹生山塊西北岸の大丹生の泊(福井市大丹生町)で小憩し、その夜のうちに敦賀に着き官舎に宿泊する。二十一日は敦賀で休養をとる。二十二日、月明かりを利用して早々に大浦山(愛発山)を越えて大浦津に着き、ここから船で大松泊(滋賀県志賀町)に到着し宿泊する。二十三日大松泊を出発して昼には大津に着き、夕方に京に戻っている。為房は加賀国府から帰京するのに、最大限水上交通を利用していることがわかる。為房は中央では左少弁の官職にあって、地方に長く逗留できる身ではなかったことも船を利用した理由かもしれない。彼はまた、摂関家の執行家司(執事)であって、殿下渡領の一つである方上荘(鯖江市北東部の旧今立郡片上村付近)も管理していたのであろうから、二十日大丹生の泊で休憩したとき、方上荘の荘官が挨拶にきている。この時、方上荘の荘官が利用した道は、気比庄・上糸生(朝日町)さらに西別所(福井市)を経由して大味(越廼村)に至り海岸を北上して大丹生へ行ったのか、織田町を経由して梅浦(越前町)に至り海岸道を北上したのかなど明らかではない。
 北陸道の幹線路は木ノ芽峠越えであったのであろうが、山中峠越えも支線路として機能していたものと考えられる。半井家本『医心方』の紙背文書には十二世紀前半の加賀・越中などに関する文書がある(山本信吉・瀬戸薫「半井家本『医心方』紙背文書について」『加能史料研究』四)。そのなかに、後の部分が欠けているので年代がはっきりしないが、十二世紀前半のものであろうと考えられる史料がある。これは、京都の身分の高い人が出した御教書に対して、地方の国司がその返事を出したものである。御教書を出したのは正月二十一日で、それを受け取ったのは同月二十八日であるから、京都から一週間ほどかかる加賀か越中に合致する。
 この文書の内容は「昨年十二月十日のお便りで、私どもの国の国司がどこかの国と入れ替わる(相博)という知らせを戴き、国元では大慌てになったので、同月十七日上京するため国元を発ちました。ところが途中の越前国水津の渡しで京都からの使者に逢い、十三日に除目があったが相博はなかったという新しい情報を得たのです。そこで、守則を上京させ私は国元へ引き返したのであります。(後略)」というものであった。この史料では水津で情報を得ていることから、この上京のために使った道は木ノ芽峠越えではなく、海路あるいはかつての官道山中峠越えであったことがわかる。これは時期的に木ノ芽峠道が雪に閉ざされていたからであろう。また、水津から敦賀へは船便を利用したのであろう。
写真113 敦賀市杉津付近

写真113 敦賀市杉津付近

 このころ、船便は水津と敦賀間だけではなかった。十二世紀後半から十三世紀初めに成立したという『宇治拾遺物語』三―四に、「山ぶし舟祈返事」という話がある(学七一)。越前国の「かふらきのわたり」という所で、舟に乗せてくれないことに腹を立てた山伏「けいたう坊」が、念力で舟を引き戻し転覆させるという話である。この話から甲楽城(河野村)からの船便があったことがわかるが、それはおそらく敦賀と結んでいたのであろう。また、「わたりせむとする者、雲霞のごとし」とあるから、かなり多くの人が利用していたこと、舟が転覆するとき二〇余人が海に飛び込んでいることから、それほど大きな舟ではなかったことなどもわかって興味深い説話である。



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