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 第六章 若越中世社会の形成
   第四節 北陸道の水陸交通
    一 新しい津と道
      気山津・木津の新ルート
 治暦元年(一〇六五)七月に越中守豊原奉季は、荘園が増加して地方行政の妨げになっているので荘園を停止してほしい、中央政府へ輸送する年貢であるのに各地の津刀が勝載料(船荷にかけられる税)といって調の一部を取り上げないように規制してほしいと、国司の行政上障害となっている二つの問題について訴えている。ここではとくに、後者の年貢運送妨害について考えてみたい。  その訴えは以下のとおりである。越中は北陸道の一国で気候は厳しく、国を治めにくいところである。九月から三月の間は、陸地は雪深く海路は波が高くて、わずかに暖気の時期を待って調物を運漕する始末である。このような悪条件をおして運ぶ京上官物であるのに、近江の塩津・大浦・木津、若狭の気山津、越前国の敦賀津で、刀らが勝載料とか勘過料(通行検問料)という名目で積荷を滞留させ、調の一部を取り上げる。また、運送の責任者である綱丁に難題をもちかけるなどの虐待をくり返す。さらにトラブルが起これば、それが決着するまで何日も荷物を留め置くので、官物が途中で減るだけではなく、納期に間に合わない原因となっている。津における勝載料や勘過料の徴収は停止してもらいたいというのである。政府はこの訴えに対して、同年九月には諸津の勘過料を停止している(『勘仲記』弘安十年七月十三日条所引治暦元年九月一日太政官符、編六九二)。
 平安時代の初め、若狭を除く北陸道諸国の雑物は、運船による場合すべて敦賀津に荷揚げされ、塩津経由で都へ運ばれたのである(法四三)。ところが平安中期になると、それ以前の史料にはみえない気山津・木津が、敦賀津や塩津・大津と肩を並べて重要視されるようになった。気山津は若狭湾の東部海岸に位置する久々子湖の南奥の気山(美浜町・三方町)に比定される。現在の地形からでは考えられない位置である。気山津は南北朝時代以降には姿を消すから、気候の変化にともなう九〜十二世紀の海退が十三世紀以降ますます進行したため、久々子湖に砂嘴ができて入船できなくなったのであろう(『角川日本地名大辞典 福井県』)。若狭では、気山津の衰退に代わって小浜湾を利用することが多くなる。木津は古津ともいい、平安初期の若狭ルートの琵琶湖の津であった勝野津の北に位置し、近江今津付近(滋賀県新旭町)に比定される。摂関時代における湖西の高島郡一帯の広大な山地には、法成寺・平等院や摂関家領の杣山があった。杣山から伐採された木材は湖上を運ばれたのであるが、その時の木材集積・積出しの港として発達したのがその名のとおり木津であったと考えられている(戸田芳実『歴史と古道』)。
図101 平安中・後期の水陸交通路

図101 平安中・後期の水陸交通路

 敦賀津に入らない北陸地方の物資は気山津に荷揚げされ、ここから南下して倉見峠を越え、熊川あたりで若狭街道(九里半街道)に合流して木津へ向かった。東大寺の雑掌秦安成が永承二年の封料を運ぶとき、若狭守橘某から木津の納所へ運ぶよう指示されていることから(文一三九)、木津には若狭方面からの物資を一時預かる倉庫があったことがうかがえる。このように敦賀津から塩津経由の公定ルートに対抗して、気山津から木津経由の新ルートが開かれ、公定ルートのバイパスとして繁栄したと考えられるのである。
 前述の豊原奉季の上申書からうかがえるように、各津の刀はかなりの力をもっていたものと考えられる。津刀らは港湾施設の修造や乗降船者の検問、積荷の検査などの公的港湾管理業務に直接携わる現地管理人集団で、船馬の需要増大という社会的事情を背景に、多分に職権を濫用したむきがうかがえる。津刀はまた海商・海運業者でもあって、民船の提供者でもあった。平安中期の敦賀・塩津・大津の津刀はこのような社会状況のなかから成長してきたのである。彼らは増大する運船需要を逆に利用して港湾業務を独占するようになったのであるが、気山津から木津経由の新ルートが開かれると、従来の公定ルート上の塩津の刀集団に対する競争勢力として気山津・木津の刀集団が登場してきたと考えられる。
 敦賀から塩津へは陸路で約二〇キロメートル、気山津から木津へは約四四キロメートルであるから、気山津からの新ルートの距離は約二倍である。このように、輸送距離とそれにともなう費用が余分にかかるのにこのルートが利用されたのは、気山津や木津の刀が敦賀や塩津の刀より有利な条件を出して租税輸送の入津を歓迎したためであろう。愛発山塊は荒血山とも書かれるように、ここを越えるのにはきわめて急峻(最高の深坂峠で海抜三六〇メートル)である。とくに冬期は相当の積雪もあり、通行不能となったであろう。これに対して新ルートは、最高の水坂峠で海抜二七七メートルで塩津街道より約一〇〇メートル低く、愛発と比べて積雪量も少ないのである。また、北陸道の物資が公定ルートのみによって運ばれると、物資は停滞しがちであったろうから、新ルートは北陸道の国司や荘園の荘官にとって滞留現象緩和のうえからも大いに利用されたのであろう。
 小浜湾と琵琶湖を結ぶルートも注目されるようになった。『延喜式』主税上の諸国運漕雑物功賃条には、山陰道では因幡国だけに海運規定がみえ、「三十六束、但海路米一石運京賃、稲十四束五把三分」と記されている。因幡国より平安京への輸送ルートとしては、一つは因幡の国津より若狭国まで日本海を運漕し、若狭国より勝野津―大津―京へのルートである。もう一つは因幡より瀬戸内海まで中国山地を陸送し、瀬戸内海を通って京まで運漕するルートである。後者は距離の点や古道の存在、『播磨国風土記』にみえる飾磨の御宅記事や日本海側の交通関係記事などから、因幡国の米の輸納は古道を山越えして播磨の飾磨津に出て、ここより瀬戸内海を通って淀津に至るものと考えられる。八・九世紀代には山陰諸国と小浜湾や敦賀津とを結ぶ航路は整備されていなかったという説があるから(松原弘宣「古代国家の海上交通体系について」『続日本紀研究』二七三)、これら二つのルートのうち日本海を利用する前者のルートは実際にはあまり利用されなかったであろう。
 『吉記』の承安四年(一一七四)八月十六日・九月十七日条によると、若狭国三河浦(御賀尾、三方町神子)の住人時定が長講堂領伯耆国久永御厨からその濫行を訴えられている(記一六四・一六五)。当時の若狭は平氏知行国であって、平氏の家人であった時定が彼の所領である若狭国西津荘で、そこに入津してきた伯耆国御厨からの船荷に「勝載料」をかけたための相論ではなかったかと思われる。したがって、平安時代後期には山陰地方と若狭との交流が考えられ、先に述べた日本海ルートも利用されるようになったと推測される。
 また元暦二年(一一八五)正月十九日付「僧文覚起請文」(文二一七)によると、後白河院領西津荘では勝載料を徴収し、その得分が院庁主典代安倍資良に与えられており、勝載料徴収には院権力が大きく反映していたことも知られる(保立道久「荘園制支配と都市・農村関係」『歴史学研究』別冊特集一九七八年度大会報告)。



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