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 第六章 若越中世社会の形成
   第四節 北陸道の水陸交通
    一 新しい津と道
      駄馬・運船の強雇
 国司の支配のもとでは、若越の地からも調・庸・年料交易雑物・年料舂米・年料租舂米・中男作物などを中央へ輸納しなければならなかった。しかし、平安時代には人力による輸送が困難になったため、馬と船がいっそう重要な交通手段として利用された。政府は寛平六年(八九四)に「調物を進上する場合は駄を、官米の運送は船を原則とする」と定めている(編五六〇)。つまり、軽量貨物は駄馬による陸路、重量貨物である米穀類は船による水路を使うことを原則としたのである。
 しかし、その荘園の増加によって、荘園から荘園領主のもとへ集められる物資の量が膨大となると、荘園領主はもちろん国司にしても、中央へ輸納するには多くの人手と輸送手段の確保が必要であった。そのため、荘園領主間、荘園領主と国司、国司間で、運送業者やその輸送手段を確保するための競争が展開された。
 元慶八年(八八四)に政府は近江・越前両国に、諸司・諸家・諸衛府使が往還の人や馬を強雇(強制借り上げ)してはならない、と命じていることからもその競合の様子がうかがわれる。また、寛平六年七月十六日、上総・越後からの訴えを受け入れた政府は、太政符で諸院・諸宮・諸司・諸家使らが往還の船・車・人・馬を強雇することを厳禁しているのである。上総・越後からの訴えとは、国の調物や官米の輸送にあたっていた郡司・雑掌・綱丁らの上申書を引用して言うには、官物輸送のため契約していた私船馬を中央の役所や有力者の使者が諸国の路頭や津辺で待ち構えていて強雇し奪いとってしまう、そのため、官物は欠失し納期にも間に合わない、輸送にあたった百姓は逃亡し国も亡んでしまう、このような事のないように道筋の各国へ命令してほしい、というものであった。そこで政府は上総からの物資が通過する駿河・遠江・三河・尾張・美濃・近江と、越後からの物資が通過する越中・能登・加賀・越前などの諸国に対して、強雇は強盗に準じて処罰する旨を路頭や津辺において立札で知らせるようにと厳達したのであった。九世紀後半には北陸・東山・東海道では駄馬や運船の需要が高まったが、その供給が追いつかずに権力者間での争奪が起こっていたのである。律令制下では貴族や寺社の封戸の調・庸・中男作物や租米は、国司が徴収して封主へ送ったのであったが、この時期になると荘園領主である寺社や貴族は輸送する専用の運送手段をもつか、民間の輸送業者に委託しなければならなかったのである。
写真112 「若狭国雑掌秦安成解案」(文138)

写真112 「若狭国雑掌秦安成解案」(文138)

 永承二年(一〇四七)十一月二十五日に東大寺の若狭国雑掌秦安成は、御封代米六五石六升八勺のうちから海路賃二石五斗八升三合三勺と運寺賃一二石四斗七升七合五勺を合わせた一五石六升八勺を、雑賃として差し引くことを報告している(写真112)。この場合の海路賃は琵琶湖北岸の木津から同南岸の大津までの船賃であり、運寺賃とは玉置荘から木津までと、大津から東大寺までの陸路輸送賃であって、一五石余りは運送業に支払われたのである。
 



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