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 第六章 若越中世社会の形成
   第三節 若越の荘園公領と地域社会
    三 越前国における荘園公領制の成立
      越前国の公領と荘園
 次に越前国の荘園の分布状況を考えてみたいが、公領との対比が不可欠なので、ここで越前の公領についてみておきたい。平安時代の公領は、史料的な限界によってほとんど検出できないので、公領と思われる中世の郷と保を郡ごとに整理したのが表49である。郷はその実態が多様なので、以下保を中心に考えてみる。

表49 越前国公領(郷・保)の分布

表49 越前国公領(郷・保)の分布
 先に検討した若狭国では、保は国衙の周辺に濃密に分布していたが、越前国ではどうであろうか。越前の国衙は南仲条郡に所在するが、その位置は郡内北端の日野川中流左岸であった。そのため、南仲条郡だけをみていても意味がなく、周辺の丹生北郡や今南西郡・今北西郡にも目を配る必要がある。そこで、これらの地域に所在する保を地図上に比定してみると、南仲条郡では大塩保・平葺保・塚原保・池上保、丹生北郡では太田野保、今南西郡では真柄保、今北西郡では成得保が国衙を取り巻くように分布している。
 しかし、国衙の北方にはなぜか保がみられず、美賀野部荘・鯖江荘・山本荘・石田荘・大蔵荘など、比較的小規模な荘園が日野川の両岸に分布している。むしろ保が集中的に分布するのは、その北方の福井平野南部であって、足羽川左岸から日野川右岸にかけて、足羽南北両郡の得光保・稲津保・久安保・太田保・六条保・蕗野保・主計保・江守保などが連続的に存在する。それぞれの保の成立事情がわからないので、その理由もはっきりしないが、もしこれらの保も国衙や在庁官人との関係が深いとすれば、国衙の直接的な基盤が小盆地から大平野のうちの相対的に安定した場所に移ってきたのではないかと思われる。
 このような保と対照的なのが九頭竜川とその支流域に成立した大規模な荘園であって、先に述べた大野郡の牛原荘・小山荘、あるいは坂北郡の河口荘・坪江荘、吉田郡の藤島荘・河北(河合)荘など、いずれも氾濫原の困難な開拓を実現することによって、初めて大荘園となることができたのである。
 最後にふれておきたいのは、敦賀郡の特殊性であって、保が足羽南郡についで多く、しかも莇野保・五幡保・池見保・葉原保など、鎌倉時代にはその大部分が気比社領になっている。気比社領には、このほかに気比荘や一二八町もの「当郡浮免田」(年によって所在地が移動する免田)があり、敦賀郡はほとんど気比社の支配下にあったとみてよさそうである(「気比宮政所作田所当米等注進状」『鎌倉遺文』四)。これは、気比社が越前国一宮として国衙の全面的な保護をうけていたためであって、国衙が直接管理した浮免田はいうまでもなく、社領の保も公領に準じた存在であったと思われる。なお、気比社領の保は、長田保・小森保が坂北郡にもあった。
 



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